「…………ん?」
目を覚まして起き上がったトリシアは、辺りを見回す。
ここは……従業員が使用する特殊な車両だ。『ブルー・パール号』と違ってもっと狭くて、汚い。
列車に連れ込まれたのだろうか、自分は。なんということだ……。
拳がめり込んだ腹部をそっと押さえる。痛い……。
鈍い痛みがしたので、きっと痣にでもなっているだろう。
立ち上がったトリシアは、狭い廊下を歩き出す。
この列車にはハルが乗っているはずだ。
彼を狙っている傭兵が、ここに来ている。知らせなければ……!
走り出したトリシアは、怪我の部分をやんわりと手でおさえたまま横開きの扉を開けて先へ進んだ。
「ハル!」
その車両の中は真っ赤だった。
ハルと、サリーの血が飛び散り、壁も床も真っ赤に染まっている。
ガラスが一枚割れているが、床には欠片はないようだ。
壊れているテーブルやイスが散乱しているので、ここは食堂車両なのだろう。……いや、だった、のだろう。
呆然とするトリシアは、うつ伏せに倒れているサリーの死体を見てびくりと反応した。
視線を動かすと、隅のほうでハルが座り込んでいるのが見える。慌てて駆け寄ると、その惨状に息を呑んだ。
指がすべて、なくなっている。両脚もズタズタに切り刻まれていて、ズボンが血を吸い込んで重くなっていた。
「ハ……ル……」
驚きつつ、安否を確かめるように手を伸ばす。
ハルは両腕をだらんと垂らしており、完全に前のめりで座り込んでいたから顔が見えない。
両頬を手で支える。……冷たい。
(うそ……)
目を見開き、そのまま顔を持ち上げる。
「ハ、ル……」
驚愕してトリシアは硬直してしまった。
ハルの両目は完全に潰され、涙のように血が流れている。顔を斜めに走る傷は深く、血が口の中にまで入っていた。
「ハル!」
どうしよう。
彼は無理な戦いを挑むような人ではない。それなのに戦った。
(どうして……?)
微かに唇が動き、ハルが掠れた声を出す。
「トリ……シア……?」
「ハル! 生きてるのね!」
「…………」
彼は無言で返した。嫌な予感にトリシアは真っ青になる。
こんな怪我で生きているなんてありえない。それは今が夜で、ハルがなんとかもっているからだろう。
本来なら、死んでいる。
「無事……だな?」
確かめるように尋ねてくるハルに頷くが、彼の目が見えないことにハッとして「うん」と慌てて言った。
「なんで戦ったの? どうしてこんな無茶……」
「……おま、えが……無事、なら…………べつに、いい」
それだけ言って、ハルはゆっくりと息を吐く。
「僕は……僕のため、に……戦った……だけだ。それだけ、だ……」
途切れ途切れに言うハルの声に力はなく、今にも事切れそうだった。
「ハル! しっかりして!」
「……言いたく、ねぇけど、言わせて、くれ」
「医者を呼んでくるから、だから……!」
「…………おまえのこと、嫌いじゃ、なかった……」
「ハル!」
「嫌いなんかじゃ…………なくて」
たどたどしい言葉を紡ぐが、ハルはぐったりとして動かなくなった。
絶望的に見つめるトリシアはハルを揺らした。
「ハル?」
最期に、だろうか? 唇がうっすらと開かれて、動いた。
――――すきだ。
ハルのことだから、重荷になるのが嫌だとか色々考えたのだろう。彼は今までトリシアを気にしていたが、決して恋愛感情を口にしようとはしなかった。
けれど。
堪えきれなかったのだ。死という孤独に。
彼はひとりぼっちで逝く。
故郷に戻ることもできず、たった一人で。
逝って、しまう……。
トリシアは自分が泣いていることに気づかなかった。
「だ、だれか……」
小さく洩らすが、それは本当に小さくて誰にも聞こえないだろう。それに聞こえたところで、誰かが助けてくれるとは思えなかった。
簡単な応急処置しかできないトリシアでも、出血多量で彼の命が消えようとしているのはわかる。
トリシアは現実主義者だ。だから、わかってしまう。
もうハルは戻ってこない。二度と目覚めない。
「わ、私……!」
なんだ、この感情は……!
この胸に走る痛みはなんだ。焼け付くようなこの痛みはなんだ!
「………………」
歯を食いしばる。
手が震える。指先が小刻みに揺れる。
何もできない自分に悔しさばかりが募る。
は、として視界に入ったのは落ちていたハルのナイフだ。血にまみれたそのナイフは怪しく輝いている。
ハルの言葉を思い出す。咀嚼するように、ゆっくりと脳内で繰り返してトリシアはナイフへと手を伸ばした。
そしてハルをゆっくりと横に寝かせる。呼吸は微かにしているが……もうすぐこの音も止んでしまうだろう。
「……っ」
喉が上下する。
袖を捲くり上げ、トリシアは自分の腕へと刃をぴたり、と当てた。
自分の息が荒くなっているのに気づいた。まるで思考がショートしてしまったかのように、彼女はナイフをスッと手前に引いた。
それだけで白い腕に赤い線が走り、じわりじわりと血が浮かぶ。深く傷つけたので、あっという間に血が溢れた。
(い、た、い)
そうは思うが、だからそれがどうしたという気持ちのほうが勝っていた。
自分の腕を彼の顔の上へと移動させ、流れ出る血を無理やり口に入るようにした。
ぽたりぽたりと自分の血が彼の口の中にすべりこんでいく様子は、見ていて気持ちのいいものではない。
けれど方法がこれしか思い浮かばなかった。なにを馬鹿なことをしているのだと自分でも思う。
だが彼はキュウケツキ、とやらに成ったのだ。生きている人間の血を欲しているのに、飲まないものだから常に飢餓状態で。
だったら、自分の生き血を与えたらどうだ? 少しは彼の回復の手助けになるのではと考えたのだ。
本当に、馬鹿な考えた。
まともな考えじゃない。
負傷者に喉から血を与えるバカがいるわけがない。本当に、まともじゃない。
トリシアはナイフを投げ捨て、傷を左手でぐっと押して血をさらに流した。
(どうか、どうか! ハルを助けて!)
*
緊急事態により、列車は帝都に戻ることになった。
ハルはあの後……。
搬送されていくサリーの死体を、トリシアと並んでハルが眺めていた。
彼は車両が帝都に着く前に姿をくらまし、あの列車には「乗っていない」ことになっていた。
同室だった客たちは他の人間に興味がないのか、ハルがいなくなっていても何も言わなかったのだ。
サリーの死体を見つけたトリシアは、何が起きたか実際には知らないので「わからない」とだけ言い続けた。
実際、サリーに痛めつけられたこともあり、トリシアはそれほど厳重には尋問されなかった。
サリーは『咎人の楽園』の一人でもあるが、精神を狂わせる薬の常習者だったらしく、まともな思考はできない状態だったと判断された。
車内の状況は、眠らされた客が数十名。そして死者が一名。トリシアも入れれば軽度の怪我人が一名、となる。
列車から降ろされて運ばれていく、寝袋のようなもの……サリーの遺体を、駅の中で見送る。そんなトリシアの背後にハルは立っていた。
すべての傷が塞がり、紙のような顔色も血色が良くなっている。
「ハル」
「あ?」
ぞんざいな言葉遣いに、トリシアは怒ったように振り返る。
「血を飲めば、すぐに回復するんじゃない! 早く言いなさいよ!」
「………………」
むすっとしたように顔をしかめ、彼は腕を組んだ。
帝都駅では人がごったがえし、彼らの遣り取りは近くを通った者でしかわからない。
「……知らなかった」
「え?」
「知らなかったんだ! あんな……あんな、反則的な復活するなんて!」
怒鳴るように言い切ったハルがきびすを返して歩き出す。それにトリシアも続いた。
ざわつく人並みを無理やり押し退けて進むハルは、怒っていた。
トリシアの腕の傷は、ハルのためにやったものだ。
「おまえこそ、馬鹿なことをしやがって! 僕のためにそんな傷!」
非難するような言葉にトリシアも腹が立った。あれだけ心配したのにこの男は!
(どこまで素直じゃないのかしら!)
「あなたが死んじゃうと思ったから、仕方ないでしょ!」
実際、ハルは死にかけていた。
トリシアの血がなければ彼はこんな見事な復活は成し遂げていないはずだ。
感謝されこそすれ、非難されるいわれはない。
だがハルはトリシアの血をもらったことが不服でたまらないらしい。
「これで僕は完全に化物の仲間入りだ! どうしてくれるんだ!」
彼は今まで誰の生き血も飲まなかった。辛抱に辛抱を重ねてきたのに、トリシアがそれを破らせたのだ。
「……っ」
はらがたった。
無性に。
だから。
トリシアは彼の腕を引っ張って立ち止まらせ、ぐいっと顔をこちらに向けさせた。
背伸びをして、彼の唇を奪う。
目を丸くして硬直したハルに、トリシアは眉を吊り上げたまま言った。
「だったら私が一生あなたの面倒をみるわ! ううん、一緒に歩いていく!」
「……なっ!?」
驚愕するハルは自分の口元を手で隠す。そしてみるみる真っ赤になっていった。
「あなたが空腹になったら私の血を飲めばいい! 一人で行くなんて許さない!」
「な、ななな……!」
それに、とトリシアは付け加える。
「あなたが私を好きだってこと、知ってるんだから!」
「あっ、あれは! あれは…………その、」
「なによ。違うっていうの!?」
問い詰めるトリシアに焦り、しどろもどろになりつつハルは「あー」とか「うー」とかわけのわからないことを言っている。
ハルは観念したように叫んだ。ほとんど自棄のように。
「ああそうだ! そうだよ! 僕はおまえのことがどうしようもないほど好きだ!」
だから。
「おまえが腕に傷を作ったのが、その原因が僕だっていうのが許せないんだ……!」
「ハル……」
「完全に痕が残る傷なんて……おまえに作らせるなんて……」
拳を握るハルは悔しそうで、トリシアはそれだけで今まで怒っていた気持ちが和らぐのを感じた。
そう。この人は、こういう人なのだ。
だからトリシアは、きっと……。
「好きよ、ハル」
つい笑みを浮かべて言ってしまうと、ハルがぎしっ、と音をたてて停止した。そしてまた顔を真っ赤に染める。
「……はあ?」
訊き返す彼は間抜けな声を出していた。
「え? お、おまえ、僕のこと、す、す、好き、って……?」
「言ったわ」
頷くと、彼は目を逸らして顔をしかめる。どうしたらいいのかわからないのだろう。
「ぼ、僕のこと何も知らないだろ。気軽にそんなこと言うな……」
それが精一杯だったのだろう。
けれどトリシアは退かなかった。彼はただ怖がっているだけなのだ。
きっとこちらの世界で怖い目にばかり遭ってきたのだろう。トリシアだって、いい目になどあまり遭っていないが、ハルはその比ではない。命すら狙われている日々を送っているのだから。
彼の手をそっと握り締めて、トリシアは毅然と顔をあげた。
「あなたも私のことほとんど知らないじゃないの。
きっとね、ケンカしたり、衝突したりすると思うけど」
「……けど?」
「…………」
いたずらっぽく笑うトリシアは彼の手を握る力を少しだけ強める。自分の気持ちが伝わるように。
きっとそう。
彼はトリシアが危険な目に遭ったら逃げずに立ち向かってくれるはずだ。
記憶力のいいトリシアがラグの言った言葉を真似するように言った。だがアレンジは加える。
「ハルはいいひと、だから」
END