隣室に取り残されたハルはルキアを横目で見る。
「魔術医学科のトップに診させるとは思わなかった」
「そうですか?」
平然と返してくるのでハルは呆れた。この子供は、自分が何をしているのか正確にはわかっていないのだろう。
(一番確実なことしか考えてないんだろうな……)
いや、考えてるかどうかさえ怪しい……。
ラグは珍しそうに室内を見回し、そわそわして落ち着かない。その様子にハルは苛立った。
ふところから取り出した瓶から、血を凝固したものを一粒取り出して口に入れる。もぐもぐと食べていると、心が落ち着いてくる。
あとでこの凝固粒の補充もしなければならない。
(まぁルキアと知り合ってマイナスはないよな……)
利用する要素が多すぎる。だがハルはそこに恐れを抱いてしまう。
(『ヤト』、か……)
ルキアを自由にしないための鎖はかなり頑丈のはずだ。ルキアはそれに気づいていないだろう。
敵に回ればこれほど恐ろしい相手はいない。だからこそ、ルキアは徹底的に帝国側につくようにとされているはずだ。
視線をルキアからラグへと移す。セイオンの剣士であるラグは、ハルから見ても超人的な身体能力を持っている。
だがラグは『欠落者』と呼ばれる存在ではない。『欠落者』は帝国人にしか現れない病気のようなものなのだ。セイオンという島々に住む、部族の一人であるラグには当てはまらない。
帝国に所属してはいるが、セイオンの人々は肌の色も髪の色も異なる。正確な帝国人、とは言いがたい。
ラグはハルの視線に気づいて、そわそわしていた動きを止めてじっと見てくる。
凝視されてハルは口をもごもごと動かしながら睨んだ。
「……なんだよ」
「ハル、『咎人の楽園』の傭兵だったパーカーのこと、覚えてるか?」
「忘れるわけねぇだろ。命を狙われたんだぞ!」
危機一髪だった。あそこで太陽が沈まなければ、パーカーはラグが殺していたか……逃げられていたか、だ。
ハルはあそこで決着をつけたかった。どうしても逃がすわけにはいかなかった。だから殺したのだ。
「気をつけたほうがいい」
「あ?」
「『咎人の楽園』、二人一組で仕事する」
ラグの真剣な表情にハルは青ざめた。それは、パーカーに相棒がいるということ、だ。
「だが『ブルー・パール』には乗ってなかったぞ!」
あそこにいた乗客の中にいるのか? いや、それはない。パーカーと接触しているような人間はいなかったはずだ。
(マジか……)
顔が引きつる。
自分一人なら、帝都でもヤツらを撒くことはできた。逃げることが可能だ。
けれども巻き込まれたトリシアの存在を無視できない。
「……ラグ、パーカーと組んでいるヤツを調べる方法はあるか」
「『咎人の楽園』に直接訊くしかないと思う」
絶望的だった。トリッパーの特徴を備えた自分が行けば、間違いなく捕まって拷問を受ける。
かと言って、別のギルドに所属しているラグに頼むのは無理だ。同様に、まったく所属の違うルキアを頼ることもできない。
もう一人だ。パーカーがもしも事の成り行きを相手に知らせていれば……。
(トリシアがまた狙われる……)
「手伝いましょうか?」
いきなり耳に入ってきた言葉にハルはハッとし、ルキアを見た。ルキアはにっこりと笑ってくる。
「知り合ったのも何かの縁です。協力は惜しみませんよ、ハル」
「…………」
「オレも手伝う!」
頷くラグのほうを見て、ハルは顔をしかめる。これ以上巻き込むべき人数を増やすのはまずい。
(僕がトリッパーと知られる危険性が増える)
「いや、大丈夫だ。なんとかできる」
なんとかする。しなければ、ならない。
ハルは二人を見遣り、それから深く頭をさげた。
「ありがとう……」
二人は驚いたように瞬きをする。
「顔をあげてください、ハル。感謝されるようなことはしていませんよ?」
この能天気な、恩を着せないところがルキアのいいところだとハルはしみじみ思った。
「そうだ。困ってるなら助け合うのが当たり前」
元気に言うラグに、苦笑しそうになってしまう。
こんな、馬鹿な……お人好しがまだいるなんて。
(こっちに来てからすぐにおまえたちに会っていれば)
僕は救われただろうか? 多少は。
頭をあげたハルは清々しい笑みを浮かべた。
「僕はまだ旅を続ける。遺跡調査を続けなくちゃいけねぇからな。
だから次にいつ会えるかわからねぇ。だけど、また会えたら」
会えたら。
ハルは言葉を区切って、ルキアの頭を撫で、ラグの肩をこつんと拳で軽く突いた。
「無視しねぇでいてやるよ」
*
「終わりましたよ」
いつの間にか眠っていたらしい。揺り動かされてトリシアは目を覚ました。
「出来の悪い魔術に何度もかけられたようですね。ほぼ毎夜かけられています」
冷静なエラリィの言葉に、起き上がりながらトリシアはゾッとする。
「あの、ありがとうございます」
ベッドから降りて深々とお辞儀をすると、エラリィはじっと見てきて口を開いた。
「ルキア様の頼みなら、断れませんからね」
「…………」
エラリィはきびすを返して診療室のドアを開けた。
そこでは深刻な表情をしたハル。こちらに気づいて笑顔を向けてくるルキアとラグの姿があった。
ルキアとラグは行くところがあるということなので、トリシアは宿舎に向かうためにハルと共に馬車に乗った。
……馬車賃が気になる。いつもなら乗合馬車という低賃金の馬車を使うのだが……。
頬杖をついているハルは、来た時と同じようにトリシアの向かい側に座っている。
だが彼の様子は違っていた。明らかに気難しい表情をしている。
(うう。なんか空気が重いわ)
トリシアはトランクを横に置いていたので、手が落ち着かない。
「トリシア」
「え?」
名前を呼ばれて、顔をあげる。いつの間にか俯いていたようだ。
ハルはこちらを見て、嫌そうに顔をしかめる。
「宿舎まで送ってやる」
「え? そ、そんなのいいですよ」
苦笑混じりに言うが、ハルは睨んでくるだけで何も言わない。
(こ、こわい……)
自分が治療を受けている間に何かがあったのはわかったが、ハルの豹変に見当がつかない。
そもそもハルは自分の用事はいいのだろうか?
魔法院までの距離はかなりあったので、もう陽が傾いている。空はオレンジ色に染まり、太陽はあっという間に姿を消してしまうだろう。
下町にある宿舎は確かにとても安全な道のりとは言いがたい。ハルが好意で言ってくれているのなら、受けるべきだろう。
「あの……では、お願いします」
「もう客じゃねーんだし、その丁寧口調もやめろ」
ぞんざいに言い放つハルにトリシアは瞬きをして口元を引きつらせる。
同じ身分ではあるが、今まで使ってきた口調を直すのは少し難しい。
「努力……します」
*
大通りに出て、そこで馬車を降りる。ハルが素早く賃金を払って降り、トリシアを促す。
トリシアは下町に向けて出ている乗合馬車を見つけて、乗り込む。
馬車は舗装されていない道を走り、揺れがひどい。貴族の住む地域と随分と違うが、慣れているトリシアはこの揺れを懐かしんだ。
到着して銅貨を支払って降り、トリシアは宿舎に向かった。もう空は暗い。
「下町の西区のほうにあるのか」
「ミスターは下町に来たことがあるのですか?」
「……おい。口調が全然直ってねぇだろ」
指摘されて、トリシアは苦笑いを浮かべる。
「すみません……」
「……下町には何度か来たことがある。宿も安いし、僕は貴族じゃねぇ」
そうだった。彼は平民なのだ。歩き回れる範囲は決まっている。
一緒に歩いていると、慣れた光景にトリシアは安堵してきた。西区は比較的治安のいいほうだ。
細い道を歩いていると、カンテラを片手に見回りをしている役人の姿が見えた。
「そういえばミ……ハルさんはこの暗さでも大丈夫で、大丈夫?」
「僕は夜目が利く」
街灯が設置されていない下町では、月の明かりを頼りにしか歩けない。今日は月が出ていて良かった。
まだ帝都の下町は環境がいいほうだ。トリシアの生まれ育った教会は北区にあるが、そちらに顔を出すことはあまりない。
男性に送ってもらうという状況が初めてなので、実はトリシアは少し緊張していた。
(……へ、変なの)
もやもやする……。
酔っ払いが道の脇に転がっているのが見え、トリシアはちらりと隣のハルを見遣る。ハルは気にした様子もなく、黙々と歩いている。……沈黙が重い。
(なにか話してくれればいいのに。でもそんな気のきいたこと、できそうにないわよね)
もうすぐ宿舎だ。思わず溜息が出そうになった時、ハルがトリシアの腕を引っ張った。
ぎょっとして彼を見遣ると、彼は横道を睨み、走り出す。つられて走り出すトリシアは頭の上に疑問符が舞い踊った。
「ハルさん!?」
「……くそっ!」
彼は舌打ち混じりにそう洩らし、トリシアを抱えあげると視界が真っ黒になった。
はっとすると、屋根の上に立っており、彼が異能を使ったのがわかる。
「ハル……?」
不思議になりながら声をかけると、ハルの瞳がぼんやりと金色に光っており、「黙れ」と短く言ってきた。
「女か……めんどくせぇな」
悪態をつくハルはトリシアのほうをぎらりと見てくる。
「ここに居ろ」
霧状に変化したハルがあっという間にそこから消えてしまう。残されたトリシアは「ええ!」と仰天の声をあげたが、屋根の上でどうすることもできない。
そっと、屋根の下を見る。先程まで居た道にハルが出現し、周囲を見回していた。