パーカーはここに来るまでの間でも、一人殺している。ひどい血の臭いだ。
軽くうめくハルは、耐え切れずに少しよろめく。パーカーは解剖が趣味だと言った。つまり、定期的に人間を殺しているのだろう。
(そうか……じゃあこいつもルキアと同じような『欠落者』なのか……)
明らかに戦闘能力が高いし、トリシアに語っていた内容がやけに気持ち悪かった。
この男がルキアを警戒するのは当然だろう。本能で敵わないとわかっている相手に勝負を挑むバカはいない。
トリシアが買い物から戻ってこないからと探しに来て正解だった。危なく、この男の餌食になるところだったのだ、あの娘は。
(勘がいいのも考えものだ……)
さて。ではどうやってこの男を追い払おう。
はっきり言って、ハルは強くない。ルキアのように魔術が使えるわけでも、ラグのように剣を扱えるわけでもない。本当にただの地学者なのだ。
トリシアが駅に到着して、応援を頼んだとしても……間に合うかどうか。
(いや、間に合わねぇ)
トリッパーの能力を使っても、こいつが喜ぶだけでなんの得にもなりはしない。
だが無関係のトリシアの寝込みを襲って魔術をかけたというのは、聞き捨てならなかった。
耳がいいのも問題だが……聞こえていた内容にはっきりと嫌悪を感じた。
こいつはハルに用がある。帝都に着いても追い掛け回されるのは御免だ。
それに。
(……ウゼェことに、僕と同じ世界の人間が狙われるなんて、たまったもんじゃねー)
仲間意識などないが、ハルにとっては数少ない同胞だ。
トリッパーを狩ることを目的にしている傭兵たちもいる…………し。
そこまで考えて、ハルは眉根を寄せた。
「『咎人の楽園』……」
ぴくりとパーカーが反応した。その反応だけで充分だ!
「おまえ……傭兵だったのか!」
トリッパーを狩るのを目的とした集団。トリッパーを見つけ、その秘密を探って売買するという……!
針が容赦なく飛んでくる。ハルは身をかわした。身体能力は相手のほうが上だ。勝っているとすれば……。
(チッ。動きが遅いのは目に見えてんだがな!)
針を避けられるのは、ハルの動体視力が優れているからだ。これもトリッパーの異能に入るのだが、「見えている」だけで、それをどうこうできる技量がハルには備わっていない。
とにかくトリシアが逃げる時間を稼がなければならない。
ハルは方向転換をして走り出した。パーカーの武器を避けることは簡単だが、走り続けるスタミナがハルにはない。
(トリシア……)
無事に逃げろ。そして、ルキアかラグを呼んでくれ!
*
列車に戻ったトリシアはラグが待ち構えているのを見て安堵した。
「ラグ! ミスター・ミズサが囮になって、私を逃がしてくれたの!」
「?」
きょとんとするラグに詳しく説明している暇はない。
「ハルが危ないの! 助けに行って!」
そう言った途端、風のように彼はトリシアの横を駆け抜けた。あっという間に駅を出て行ってしまう。
残されたトリシアは、荒い息をなんとか整えようとしながら、ラグが間に合うことを祈った。
*
駅とは反対方向に逃げているが、もう息があがってきた。
異能を使うことも考えたが、パーカーに決定打を与えるわけにはいかない。
今のハルは、誰が見ても普通の人間だろう。血色の悪い。
パーカーのほうは不思議でならないだろう。なにせ、足の遅いハルに武器がまったく当たらないのだから。
(……ぐ……。くそっ)
傾いた太陽の光が目に入って辛い。
息が、荒くなる。心臓が早鐘のように打つ。このまま死んでもいいと自棄になる気分が湧き上がってくる。
「ハル!」
声にハルはギョッとした。屋根の上から聞こえた声と同時に、何かがドン!と背後に落ちてきた。
着地したラグだとわかったのは、振り向いてからだ。
ラグはばさりと外套を鳴らし、パーカーと対峙する。
足がもつれてハルはそのまま転倒した。情けない。
ラグは両手を外套の内側に隠したまま、じっとパーカーを見ている。パーカーは明らかに余裕がなくなり、顔をしかめていた。
「大丈夫か、ハル」
「大丈夫に見えるのかよ、てめぇには」
悪態をつくと、ラグは頷いた。
「大丈夫に見えない。あいつ、列車に乗ってた。なぜ、ハルを狙うんだ?」
疑問になっていて、状況は理解していないようだがハルを守る気がラグにはあるようだ。
心強い味方にハルは何度か荒い息を洩らして、立ち上がろうとする。無茶な動きをしていたために、膝が笑った。
「勝手に僕をトリッパーと勘違いしてるんだ! トリシアも襲おうとしてた」
はぁはぁと、途切れながらそう言うとラグが半眼になってパーカーを睨んだ。
「おまえ、何者だ」
静かに問うラグは、外套の内側からにゅっと手を出した。そこには、どこに隠されていたのか、大振りの片刃の剣が握られている。
構えることもしないラグの背後で、ハルは息を整える。
さあ、どう出る? パーカー!
うかがっていると、パーカーは武器を素直に落とした。そして降参するように両手を挙げた。
「キミと戦う気はないよ、セイオンの剣士くん」
「?」
「私が用があるのは後ろのハル=ミズサだけだから」
その時だ。完全に太陽が隠れた。
闇に落ちた瞬間に、ハルは動いた。パーカーが隙を狙って行動したからだ。
隠した針をハルに向けて投げつけるが、ハルは恐るべき瞬発力を発揮してパーカーの背後に立っていた。
暗闇の中で、茶色の瞳がやんわりと黄金色の輝きを宿している。
「僕には用なんてねぇよ」
隠し持っていた短刀を背中から突き刺す。驚愕して振り向くパーカーからハルは素早く離れた。
唖然としていたラグの目の前で、パーカーはしばらくじたばたと手足を動かしていたが、どすんと音をたてて倒れた。
ハルは短刀を抜いた。するとそこから多量の血が噴き出る。
まともに返り血を浴びたハルがひどい咳を繰り返して、顔を隠す。
「あ、だ、大丈夫か、ハル」
「……ああ」
低く答えるハルにラグは怪訝そうにする。
「ハル、すごい速かった。びっくりした」
「…………偶然だ」
「?」
「…………おまえが来なかったら殺されてた。助かった」
「え? そ、そうか? でも、こいつ……なんだったんだ?」
パーカーへと視線を落とすラグに、ハルは説明するのが面倒そうに顔をしかめた。
「『咎人の楽園』の傭兵だ」
「えっ!」
*
パーカーのことは、ハルの正当防衛ということで決着がついた。
彼が死んだと聞いてトリシアは驚いたが、同時に深く安堵した。これでもう、狙われる心配はない。
戻って来たハルはさらに顔色が悪くなっており、貧血症がまた発症して医務室へとラグに運ばれていった。
遅番になった日、トリシアは医務室を覗いてみた。ハルはこの一週間、医務室のベッドの上にずっと居たのだ。
「あれ? 先生?」
医者はちょうど席を外しているようだ。トリシアは室内に入り、ハルに睨まれたが怯まずに頭をさげた。
「この間はありがとうございました」
「……だから、おまえを探しに行ったわけじゃねぇって言っただろ」
不機嫌な顔と声で言われるが、トリシアは笑顔を浮かべた。
「その後、私だけ逃がしてくれました」
「…………」
目を細めてくるハルはすぐにぷいっと顔を逸らす。
トリシアはベッドの脇にある、小さな丸イスに腰掛けた。
輸血され続けているハルは困惑したようにこちらを見てきた。
「仕事はどうしたんだ、おまえ」
「今は休憩中です」
「……夜だぞ」
「遅番なので」
「へー」
どうでもよさそうに洩らし、ハルは視線を外す。
「ミスター・パーカーは死んだらしいのですが」
「ああ。僕が殺した」
あっさりと言われてトリシアはちょっと驚くが、頷く。パーカーは、たぶん……ハルを殺そうとしたのだろう。
「もうおまえの部屋に入ってくることもねぇだろーよ」
ぶっきらぼうに言ってのけるハルに、今度こそ驚いて目を見開く。
「……なぜそのことを? あ……聞こえていたのですか?」
「っ」
しまったというようにハルはハッとし、それから頬を赤くしてトリシアを寝転んだまま見上げてきた。
「べっ、べつに聞こうと思って聞いたわけじゃねえ!」
「……そうですか」
「信じてねぇな!」
「いえ、ミスターは耳がいいので真実だと思うのですが……。あの時、私を助けに来てくれたのですよね?」
念押ししてくるトリシアに、屈辱的にハルは唸る。
「なんでそう思う?」
「イズル駅でも見つけてくれたのはミスターでしたし、今回のマハイア駅でも……」
「偶然だっ!」
激しく言って、上半身を起き上がらせるハル。
「偶然にしては……出来すぎだと私も思うのですが」
「……っ」
歯軋りするハルは、しばらくしてはぁ、と息を吐き出す。
「ほんっと生意気な女だ。頑固者だし、意地っ張りだし」
「同様の意味だと思うのですが……」
「…………ありがとな」
「え?」
「ありがとうって言ったんだ! 聞こえなかったのかよ!」
真っ赤になって必死に言ってくるハルにトリシアは目を丸くする。
彼に感謝されるようなことはしていない。
「なにを、ですか?」
「……っ、い、言わせんのかよ、クソッ」
「いえ、あの、言いたくないのならべつに言わなくても」
「うるせぇ!」
頭を抱えるハルは、キッとこちらを見遣ってきた。なぜ睨まれるのだろう?
「僕の秘密、言わなかったんだろ、あの男に」
「………………あ」
合点がいって、トリシアは恥ずかしそうに俯いた。あれは確かに意地だった。
「お客様の秘密を守るのは、従業員としての勤めです」
「……たかが客だろ。バカか、おまえ」
「バカにされるいわれはないと思うのですが」
ムッとして言い返すと、ハルはふわっと微笑んだ。初めて見る笑みに、トリシアはどきりとする。
「クソ真面目に客の秘密を守るとか、ねぇだろフツー」
明るく笑うハルに、トリシアのほうがぽかんとしてしまった。
(こんな顔をして笑うのね、ミスターって……)
なんだか、うれしい。
そう思っていることに気づかれるのが嫌で、トリシアは視線を伏せた。
「僕は」
ハルがそう切り出してきたので、トリシアは顔をあげて彼を見る。
「帝都に、次の遺跡探索への申請を出しに行くんだ」
「…………」
なぜ、そんなことを言われるのか。
トリシアは無言で聞くだけに集中した。
「トリッパーは政府に厳重に管理されてて、どこ行くにも申請を出さないといけねぇ。僕たちは、お互いに出会ったこともねぇんだ」
「ではミスターは、他のトリッパーに会ったことはないのですか?」
「ねぇな。それに、同じトリッパーでも、僕とは肉体影響が違うから……。苦労も違う」
「…………」
「誰もが、僕を見てトリッパーだって言う。そりゃそうだろうな。こんだけ、伝承通り、噂通りの見た目をしてるのはそんなにいねぇ」
「……それは、ミスター・パーカーの言っていた話と関係があるのですね」
「ああ。トリッパーは、元は同じ世界の同じ国からやって来る。僕の国ではそれを『神隠し』と言ってた」
「カミカクシ?」
「こっちの世界では神様なんてもんは崇拝されてないからピンとこないだろうが、そういう風に、突然行方がわからなくなったヤツの現象を呼んでた」
「…………」
「で、僕たちの世界では『化物』とか、『妖怪』とか、得体の知れない存在が多く囁かれていた」
「それは、荒野にいる獰猛な獣たちとは違うのですか?」
「違うな。文化が違うから、理解するのは難しいとは思うんだが……。まぁそのバケモノってのに、僕たちはこっちに来ると成っちまうわけだ」
「え?」
ばけものという存在に「成る」?
トリシアには理解できなくて、困惑した眼差しを向けるが、ハルは構わずに続けた。
「だから」
声のトーンが低くなった。
「元の世界に戻っても、たぶん……僕はこのままなんだろう」
「ミスター?」
「もしかしたら、違う時代に戻るかもしれない。違う国へ戻るかもしれない。だけど、僕たちは元の世界に戻りたい」
弱々しく洩らすハルに、トリシアはかける言葉が見つからなかった。
誰だって故郷を懐かしいと思うだろう。そこに思いを馳せるだろう。だが「戻れる場所」が、ハルたちには遠すぎるのだ。どうやって戻ったらいいのかもわからない。
トリシアは自分が育った教会を思い出す。ろくな思い出もないが、ハルは違うのだろう。
「……ミスターの世界はどういうところなのですか?」
決意して尋ねると、彼は自分が何を吐露していたのか自覚したようで我に返って顔を赤くする。
ちらちらとこちらを見てくると、こほんと小さく咳をした。
「たいした世界じゃねーよ。まあ、僕たちの国は、小さな島国なんだけどな」
「島国?」
「この帝国全土より、すっげぇちっちぇえ。セイオンの島と、同等か……それ以下かもな」
「島が国、なのですか」
理解できない世界だ。島が一つの国? しかも一つの国家だというのは、帝国人のトリシアにはわけがわからないものだった。
「…………」
言葉も出ない様子のトリシアが可笑しかったらしく、ハルは吹き出して軽く笑った。
なぜ笑われるのかと憤慨の顔を作るトリシアに、彼は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「まあ、わかれってほうが難しいから、そんなに考え込むことねぇだろ」
「……いいえ! ミスターが話して下さっているのに、真面目に取り組まないわけにはいきません!」
「…………」
彼は目を丸くし、それからけらけらと笑う。
「本当に意地っ張りなんだな、添乗員!」
「…………」
むすりと不機嫌そうに唇を真一文字にすると、ハルは嘆息した。
「なるほど……。僕の秘密を守れたのも、頷けるってもんだ」
「なにがですか」
「なんでもねーよ」
素っ気無く答えるハルは、輸血が終わったのに気づいて、腕に刺してある針を無造作に抜いた。
「ミスター!?」
「うるせぇな。もう大丈夫だ。それに、おまえが近くにいるほうが気分が悪くなる」
「…………」
そこまで嫌われていたというのは、正直ショックだった。
動きを止めたトリシアに気づき、ハルは「あ」と呟いて慌てた。
「ちっ、違う! そういう意味で言ったんじゃねえ!」
「…………」
「おい! 暗くなるな! べつに、ぼ、僕はっ」
ハルは限界まで顔を赤くして、逸らす。
「おまえを、き、嫌ってない……!」
「え?」
「き、訊き返すんじゃねぇよ!」
怒鳴ってなんとかしようとしているハルは、トリシアと目が合うと恥ずかしくなるらしく、また逸らした。
(でも今、気分が悪くなるって言ったわよね?)
空耳とは思えないほど、はっきり言われたはずだ。
「ですが」
「そ、そうじゃなくてだな……! た、体質で…………その」
言い難いことのようで、ハルの声は徐々に小さくなっていく。
「わ、若い女とか、子供が……苦手、というか……近づかれるとダメっていうか……」
汗までかきながら言われて、トリシアは不思議になるしかない。
子供が苦手? 若い娘が苦手? とてもそうは見えないし、車内で彼は普通に接していた。
時々、邪険にされることはあっても、ルキアも自分も、それほど彼に苦手意識があるとは思わなかった。
(単にルキア様がうるさいから嫌ってるかと思ってたけど)
違うのだろうか?
「では、ここに私が居ることは迷惑でしょうか?」
腰を少しだけ浮かせて問うと、ハルは「えっ」と驚いたように目を瞠り、それからなんだか慌てた。
「い、いや! べつに迷惑ってわけじゃ……」
「ですが私も若い娘に入ると思いますし、お邪魔しては悪いと思いますので」
「そ、そうじゃなくて、だな」
もごもご言うハルはどうにも煮え切らない。
イライラしてきたトリシアは思わず彼を睨んだ。
「煮え切らないですね。どちらなのですか」
「……ここに居ろ!」
そう短く言うと、不貞腐れたように頬杖をつく。
「それに……ミスターじゃなくて、ハルでいい」
「そういうわけにはいきません」
「…………おまえ、ほんっと意地っ張りと言うか、職務に忠実というか……」
呆れるハルが嘆息した。
「まあいいか。もうすぐ帝都だ。おまえはどうするんだ?」
「宿舎に戻り、しばらくの間は待機になります」
「この列車が準備できるまでは自由時間ってわけか」
「そうなります」
ハルは何か考えるようにしていたが、「そっか」と呟いてひとりごちた。
「もしも行き先が同じなら、またこの列車に世話になるかもな」
「もしそうなら、よろしくお願いいたします」
「ああ」
柔らかく笑うハルは、だがすぐに表情を引き締めた。
「ルキアに相談して、おまえにかけられた魔術に関して、問題があることがわかった」
「えっ」
「パーカーがどれくらいの期間でおまえに術をかけてたのか知らねぇけど、ルキアを頼って病院にいったほうがいいかもしれねぇ」
「…………」
「あ、安心しろっ。僕にも責任があるからな。一緒に行ってやる」
「ミスターがですか?」
「そ、そうだ。な、なんだ? いけないのか?」
「いけなくはありませんが……」
ここまで親身になってくれるとは思っていなかった。
彼は微笑むトリシアを見て頬を赤らめ、俯いた。その意味に、トリシアはなんとなく思った。
(なんだ……。やっぱり嫌われてはいないのね。よかった)
よかった???
自分がなぜそう思ったのかよくわからないが、まぁ……それでもいい。なんとなく、それでいいと思ったのだ。