ルキアは一等客室に陣取っている貴族なだけあり、広い客車を使用している。
部屋のドアを開けようとすると、ルキアが「わあ!」と声をあげた。
「なりません!」
「え? なにがです?」
添乗員たちが室内の掃除は定期的におこなっているはずだ。なにをそんなにうろたえるのかわからない。
(……あれ? そういえばルキア様の部屋の担当って…………いない?)
先輩のエミリは担当していないはずだ。そういえば、聞いたことがなかった。
偉い軍人、しかも貴族とくれば、命じられて部屋の担当から外れることだってある。
「…………ルキア様」
「室内は雑然としているので、ここまででいいですから」
丁寧にそう微笑して言うルキアに、トリシアは嫌な予感が当たったと感じた。
無造作に伸ばされている髪といい……いつも同じ軍服といい……まさかと思っていたが。
(ルキア様って……かなりの面倒くさがりなんじゃ……)
「……お掃除、されてないんですか?」
「軍務だと機密も多いので、室内にあなたたちを入れるわけにはいかないのです」
はっきりと言うルキアだった。理由は、確かに間違ってはいないだろうが……きっとひどい有り様なのだろう。
(そういえば、帝都に戻ると仕事が山積みみたいなこと、おっしゃっていたわね)
「ルキア様は、いつもどんな仕事をされているのですか?」
質問をすると、ルキアはちょっとだけきょとんとし、それからふんわりと笑った。
「軍務です」
……その内容を訊いているはずなのだが。
目を細めるトリシアに、彼は首を軽く傾げた。
「機密が多い内容なのですか?」
「え? あ、ああ……軍務の中身が知りたかったのですか。すみません。
えっと……そうですね。機密が多いので、あまり教えるわけにはいかないですけど……慈善事業、ですかね」
「慈善事業? 前もそうおっしゃっていましたね」
「はい。軍務が常にあるとは限らないので、予定が空けば、ルーデンのように嘆願書を送ってきた地方へ赴くこともあります」
「ルーデンの嘆願書?」
「帝都の軍には多くの嘆願書が送られてきます。もちろん、政府へ対してのものは軍にはきませんが……。
傭兵ギルドではなく、軍を頼る民間人からの嘆願書は、かなりあるのです」
それはそうだろう。ギルドは確かに手っ取り早い方法ではあるが、賃金がかかる。それに比べれば、多少時間がかかっても帝国軍に嘆願書を送って、救出を待つという手もある。
「あまり皆、やりたがらないので率先して自分が嘆願書を読んでいるのです」
「ええっ!」
驚きだった。
ルキアは特殊な部隊所属のはずだ。それなのに末端の仕事をこなしているというのか!?
彼は叱られた子供のように肩をすくめ、それから苦笑いを浮かべる。
「やはり……そういう反応をしますよね。皆、同じ反応をします」
「だ、だってルキア様は、皇帝直属の部隊に所属しておられますよね?」
「そうですが……。軍に所属する一人の人間でもあります。嘆願書があれば、対応しますよ?」
「ルキア様が、下の者に命じれば済む話だと思うのですが……」
「いえ。効率が悪いので、自分が出向いたほうが早いのです」
はっきりと言うルキアを、トリシアは信じられないとでもいう表情で見つめた。
効率が悪いから、本人が行くとは……。いくらなんでも、自分の身分や立場を考えていないのではないだろうか?
(本当に頓着していないというか……。あ、だから、帝都に戻るとお説教があるとか言っていたのね)
説教で済むわけがない……。だがそれでもルキアは軍職を剥奪されない。それはひとえに、彼の能力を軍が重宝しているからだろう。
戦争の際に、ルキアほどの魔術師がいるのといないのでは、話が違ってくる。
(好き勝手にさせているのは、それだけルキア様の能力を買われている証拠なんだわ……)
それに、実際のところ、ルキア本人が出向けば事が簡単に運ぶのも事実なのだろう。
「…………そういえば、ルキア様の階級は……」
「自分ですか? 少尉ですが」
笑顔で言われて、トリシアがびしりと音を立てて固まった。
少尉? この年齢で?
(よ、よくわからないけど、かな〜り偉い地位だったような覚えがあるんだけどなぁ……)
目線が逸れるトリシアを、彼は不思議そうに眺めている。
(そっか。ルキ……じゃなくて、ファルシオン少尉、なんだわ)
……それにしては、軍服だけという姿もおかしなものだ。外套を羽織ったり、ある程度の勲章をつけていたりするのではないのだろうか?
身なりもきちんとしなくては、色々と文句を言われてもおかしくない。
「あの……ルキア様、外套は支給されていますよね?」
「はい。あぁ、でも面倒なので着ないことにしています」
にこっと笑顔で言われてトリシアは「やっぱりかー!」と思ってしまった。
(おかしいと思っていたのよ! だって階級が上のはずなのに、外套を羽織ってないとかなんか違和感あるって思ってた正体はこれかー!)
頭を抱えたくなってきた。
ルキアはそもそも自分の階級にも頓着しないようなのだ。軍務をこなせれば他はどうでもいい、というわけではないだろうが、それに近いものがある。
「ルキア様、自覚がなさすぎです!」
泣きそうなトリシアの声音に彼はきょとんとし、それから眉をひそめた。
「あの……なんの自覚でしょうか……?」
「軍人としてではなく、階級者としての自覚です!」
はっきりと言ってやるが、ルキアは可愛らしい目を丸くするだけだ。
「……よくそう言って怒られるのですが、意味がわからないのです」
困りました……。
と、本気で困ったように呟いているものだからたまらない。
(盗賊と遣り合っても、相手が油断するわけだわ。軍服を着てる子供なんだもの、ただの。外套も勲章もつけてないなら、ただの駐屯してる軍人と思うか、酔狂な子供としか思わないわ)
それが大きく成果に繋がっているのだろうが、いくらなんでも無謀すぎる。というか、無頓着すぎる!
(実務に不用ですから、と笑顔で言って将軍閣下とかに教育的指導でも受けてそうだわ)
青ざめるトリシアの予想はほとんど当たっていた。ルキアは軍人の中でも、ズバ抜けて口答えをする生意気な者という噂が実は広がっている。
本人がいくら素直で、現場のことを思っても、上層部のメンツを気にする輩には気に入られないに違いない。
しかも……特別部隊にまで入っているとなると、陰口を言われる格好の的だ。
やきもきするトリシアはその場でばたばたと足踏みした。その様子を見てルキアはますます不思議がる。
(ああもう、ルキア様って、他人の機微にすごく疎いんだわ!)
天才となにかは紙一重というが、まさにその通りのようだ。
「トリシア、さっきから何をしているのです?」
ばたばたと足踏みをしているトリシアはさぞ奇妙に見えたことだろう。だがそうでもしないと、この心のもやもやは爆発しそうだったのだ。
「とにかく、部屋を片付けろとは言いません! 眠れるスペースくらいはあるのでしょう?」
「…………」
無言で笑顔になるルキアの様子に……察するしかない。
ベッドの上も書類で占領されているのだろう。
(片付けたいけど、機密文書に触るわけにはいかないし〜……! あーもう!)
「平気です。眠るだけなら床でも構いませんし」
「なんてことをおっしゃるのですか!」
もう嫌だ! 泣きそう!
実際に彼は床に転がって寝ていそうで……想像ができるので余計に嫌だった。
「せめてベッドで眠ってください! お願いですから!」
トリシアの懇願に、彼はちょっときょとんとしてから「わかりました」と頷いてみせた。
*
…………その結果がどうしてこうなるのだ……。
こめかみに青筋を浮かべた状態で眺めるトリシアの先には、自分の小さくて狭い簡素な寝室に転がって眠るルキアがいる。
自分の使うぼろ切れのようなタオルケットで、軍服を脱いだルキアがシャツだけの状態で完全に寝入っているのだ。
「…………」
口元を引きつらせるトリシアだったが、ここしか彼に提供できる場所がなかったのだから仕方ない。
医療室のベッドはなぜかハルが占領していたし、ルキアの部屋は機密文書が多すぎて立ち入れない。結局行き着く先はここだった。
彼はトリシアが羞恥に真っ赤になっているのも気にせずに軍服を手早く脱ぎ、シャツと簡素な短パン姿になって「おやすみなさい」と寝てしまった。
「ん? なにしてんのトリシアこんなところで。サボってないで、展望室の掃除……ってギャー!」
エミリが悲鳴をあげてトリシアにしがみついた。
それもそうだろう。自分の隣室に可憐な妖精が無防備に眠っていたら誰だって驚愕する。
「な、なんでルキア様があんたのベッドで寝てるのよ! ほとんど床よ、ここ!」
「……ルキア様がそうしたいって言うから……」
「…………あんた、泣きそう?」
「だってエミリ先輩!」
エミリの肩を掴んで前後に強く揺する。
「ルキア様が使ってるの、私のものなんですよ全部! あ、あんなぼろ切れみたいなタオルケットだって! わ、わ、私の……っっ!」
「あー……なんかあんたの気持ち、すごいわかるわ。そりゃ恥ずかしいわよね……」
エミリが眠っているルキアを一瞥し、嘆息した。
「まあルキア様が変態じゃなくて良かったじゃない。あんたの匂い嗅いで興奮してたらヤバイもん」
「そんな恐ろしいこと言わないでくださいっ!」
「……しっかし寝てても本当に綺麗ね……。恐るべき美貌……」
二人でちろりと眺めるが、眠っているとますます妖精のようで神秘的だ。
トリシアはドアを閉めて、恨めしげな顔をする。
だがそこで、ことは終わらなかった。
仕事をひと段落させ、早番で終わったのでと部屋に戻ってきて開けたそこに、まだルキアが眠っていた。
仕方ないのでトリシアは屈んで近づき、起こす。
部屋そのものが狭いので、かなり接近しないといけないのが問題なのだが……。
「んしょ……っと」
彼を脚で挟むような体勢にぎくしゃくしつつ、ルキアの肩を揺すった。
「ルキア様、もう夜ですよ。起きて部屋にお戻りください」
「…………」
うっすらとルキアが瞼を開けると、にこ、と微笑んだ。
起きてくれたと安堵したのもつかの間。ぐいっと手を引っ張られて「えええー!」と思う暇もなく引っ張り倒されていた。
狭い個室で。狭い寝室で。
息遣いがすぐ近くに聞こえて。
トリシアは全身の血液が頭に集まるのを感じていた。
綺麗な顔が目の前に……こんなすぐ近くに!
(き、気が遠くなりそう……!)
くらくらしてきたと思ったら、腰に手を回された。
「面倒なので、一緒に寝ましょう」
「はあっ!?」
大声を出すが、ルキアは寝ぼけた声のままで続けた。
「嫌ですか、自分と眠るのは」
「み、未婚の女性が男性と寝屋をともにするのはよくありませんっ!」
必死に離れようとするが、ルキアは意外に腕力が強い。うそっ、とトリシアは青ざめた。
考えてみれば彼は軍人なのだ。魔術師だとしても、軍属として訓練は受けているはずだ。見た目に騙された!
(ひゃあああああ〜!)
必死に抵抗しても、無駄なのはわかっている。わかっているが、やらなければならない。
(な、なんかすごい近い! 近い近い〜っ!)
脚と脚が絡み合い、まるで縛り付けられているようなポーズになるトリシアは、自分の仕事着のことを心配してしまう。
「ルキア様! 起きて! 起きてくださいっ、お願いですからっ!」
懇願に近いトリシアの必死の呼び声に意識が浮上してきたのか、ルキアの瞼が開いた。
ぱち、と開いて視線が絡む。
彼は一瞬理解できなかったようで怪訝そうに眉を寄せ、それから自分が何をしているのか瞬時に悟ったようだ。
みるみる真っ赤に顔を染めて、俯かせる。
「も、申し訳ありません、トリシア……」
照れの混じる声でそっと手を放す。解放されたトリシアは起き上がった。すぐにルキアも起き上がる。
寝起きの彼は乱れた衣服ではあったが、髪に寝癖などはついていない。
「……なにか寝言とか言いましたか?」
そっと、うかがうように訊いてくるルキアにぶんぶんっと首を横に振ってみせる。すると彼は安堵したように胸を撫で下ろした。
「寝ぼけて抱きついてしまったようですね。申し訳ありませんでした、トリシア。あの、殴ってくださって構いませんよ?」
「……ルキア様、殴れば済む問題ではないと思いますが」
冷静にそう指摘すると、彼は驚いたように目を丸くする。
「じょ、女性の寝所に潜り込むのも、問題です……。こ、今回は仕方ないですけど」
「ど、どうすればよいのでしょう?」
心底困っているらしいルキアは、「殴る」以外の方法での解決法が思いつかないのだろう。
(くぅぅぅ〜! 憎めないのがまた腹が立つ〜!)
勢いよく立ち上がったルキアは、トリシアに迫った。
「すみません! 軍律は詳しいのですが、他のことに疎くて……! トリシアの気の済むようにしてください!」
「ちょっ、ルキア様!」
押される形で迫られたので、後ずさった拍子にトリシアは転んでしまう。狭い廊下で腰を打ちつけ、顔をしかめる。
「ああ! すみませんトリシア!」
慌ててがばりと横抱きにされて持ち上げられる。あまりの軽々とした動作にトリシアは仰天した。
(ラグなみに腕力が……いや、そこまではないけど、ある程度はあるのね……!)
そっと自分の寝台に寝かされて、そこをルキアが覗き込む。
(ぎゃー! 近い! さっきとは違う意味で近いですよルキア様ぁ〜!)
「大丈夫ですか? 痛むなら医者を呼びに行きますが」
「だっ、大丈夫です……! ですから、あのっ、ちょっと離れ……」
「…………」
じっ、と真剣な顔で凝視されてトリシアは何も言えなくなってしまう。
こんな真面目な顔をされて……すごく心配しているに違いない。申し訳なくなった。
「…………」
彼はじっとこちらを見ていたので、恥ずかしさのあまりタオルケットで身体を隠すような仕草をしてしまう。今はただの仕事着だというのに。
立ち上がった彼はすたすたとその場を立ち去ってしまう。唖然とするトリシアはわけがわからなくて部屋の外を覗くが、彼が引き戸を開けて従業員車両を出て行った姿しか見えなかった。
それから数分後、ルキアは自室として使っている客室の上等な毛布を運び込んできた。
「これなら腰に優しいと思いますし、自分としても安心です」
どうぞ、と床のように固いそこに敷かれてトリシアは硬直するしかなかった。
いかにも貴族の使う、上質な毛布。こんなものを使えるわけがない。
「る、ルキア様……無理です。お気持ちだけで嬉しいですから」
「いけません。無理をして明日の業務に差支えが出ては困るでしょう?」
爽やかな笑顔にトリシアは空いた口が塞がらなくなってしまう。
「どうぞ使ってください。なんでしたら、自分が買い取りますから気兼ねなどいりません」
「ええ!」
「……その、寝ぼけたお詫びも兼ねているというか」
うっすらと頬を染めてルキアは視線を外した。
「困らせたお詫びです。これくらいしか、思いつかなくて……」
照れながら薄く微笑むルキアに、トリシアはぼーっとしてしまう。
こんなに綺麗な少年が、これほどまでに自分を心配してくれるなんて……夢じゃないだろうか?
「い、いえ、でもこんな高価なもの……」
「では、貸す、という形でも結構です。存分に使ってください」
「使ってくださいって、ルキア様はどうされるのですか?」
「ゆっくり眠ったので、車内の安全を確認しようと思います。ラグと交替もしないといけませんし」
そう言いながら彼は立ち上がって、「それでは」と会釈をして去ってしまった。
部屋に不似合いな毛布は柔らかくてあたたかい。ルキアに感謝して、トリシアはその晩はゆっくり休むことにした。