まるで落下だ。
一気に崖下に転落する感覚。
きっと今頃自分の肉体は乗っ取られている。殺した『死影』の狂気に。
あれは一ヶ月前のこと。
ラグは大陸の北にある、ルーデンよりは南にある村に依頼を請けてやって来ていた。
そこに住んでいる『死影』を退治するのが彼の仕事だったのだ。
『死影』と関わるとろくなことにならない。これは誰もが言うことだったが、娘を殺されたという男の言葉にラグは引き受けることにしたのだ。
死んだ娘の歳は7つ。まだ幼い少女を殺した魔術師は、家族の目の前でそのまま貪ったという。
『死影』を倒す方法は限られていて、また用心もしなければならない。
相手は『不老不死』を研究し、おかしくなってしまった魔術師だからだ。
だが死影は魔術を使うのが難しい。まともに言語が喋れないのだから、呪文が詠唱できないのだ。
用心をしながら訪ねた村にやって来たラグは、北の寒さに少しだけ身震いした。
いつもと変わらない、大きな外套を身にまとい、彼は村に足を踏み入れた。
出迎えた男に事情を聞いて、確認し、それからラグは死影が荒野から村にやって来る道の真ん中に立った。
細長い道だが、見渡しがよく、場所は広い。ここなら戦闘をしても誰かを傷つけることはない。
ラグは背負っていた剣の柄に手を置き、深呼吸をした。
死影と戦うのは初めてだ。死影のことをトリッパーは「グール」と表現した。もちろん、こちらの世界にはない言葉なので、誰も理解できなかった。
自分の浅い呼吸だけが聞こえる。
ラグは気配を感じて身構えた。
道の向こうに小さな影が見えた。人影だ。だが生気は感じられない。
不老不死になった、いや、成り損ねた存在……死の影に支配されない者、死影!
禁忌の魔術に手を出すと人はああなる、と誰もが言う。教訓にせよと、魔法院では教えるという。
人の手には余るものに手を出すべからず。
その見本がやって来る。…………来る!
目を見開き、ラグは相手を見据えた。
ぼろぼろの衣服を着た、まるで枯れ木のような人間だった。目は落ち窪み、白く濁っている。
死影は足を止めた。生きている人間を食べる死影は、もごもごと口を動かし、だらりと涎を垂らした。
ラグは相手の一挙一動を見ていた。目を離さない。
――と。
死影がくわっと口を大きく広げて一気に距離を詰めてきた。その動きの素早さにラグは落ち着き払った心で応じた。
剣を鞘から引き抜き、ぶん! と横薙ぎに払う。
死影が攻撃を避けて、ラグを警戒するようにびょん! と跳躍して後退した。
(人間の動きじゃない……)
思っていたより速い。だが、こちらのほうが速いだろう。
ラグは油断しない。自分の背後には村がある。そこには生きている人がいる。
だからここから先へ行かせるわけにはいかない。
剣を構え、ラグは右足を前に移動させる。決着は一気につける。
死影を退治する方法は『限られている』!
(それは……)
それは。
ラグは移動した。その速さは死影を驚かせるには充分で、彼は死影の背後にほんの一瞬で現れたのだ。
剣を振り上げる。振り下ろす。
動作にも無駄がない。
首を切断し、四肢を切断し、すぐに燃やせ。
それが死影を葬る方法なのだ。
「ぉお!」
渾身の力を込めて振り返ろうとする死影の首を刎ね飛ばした。骨を切断する感触が腕に響く。
続けて四肢を斬り落とし、ラグは腰に下げていた油の入った袋をぶちまける。倒れた死影の体にかかった油に火をつければ終わりだ。
はっ、とした。刎ね飛ばした首がない!
背後の足元で聞こえた。
「『我が敵に呪いあれ』」
全身を悪寒が駆け抜け、ラグは緩く背後を振り向いた。自分の足元に転がる死影の首が、もごもごと喋っている。
呪文の詠唱だ……!
「『我が敵の死を除け』」
「よ、せ!」
死の間際、死影は相手に呪いをかける。だから素早く火をつけて燃やさなければならない。
ラグは首を蹴飛ばして油の散る中に入れると、素早く火打ち石を使って火花を飛ばし、火をつけた。
勢いよく燃え上がる死影は、炎の中でもごもごとまだ口を動かしている。
荒い息を吐くラグは、ぞわり、とした。
呪文は、かけられた。魔術を、かけられた。ただの魔術じゃない。死影になる魔術だ。
だが完全だったのか? どうなんだ?
わからない……。
混乱するラグは、死影が燃え尽きるまでそこに立って見届け、村に戻った。
礼金を貰って帝都へ帰ろうとして小道を歩いていた時、異変は起こった。
意識が、なくなったのだ。
きっかけは些細なものだった。
最寄の駅までの道、途中で獣に出くわした。それだけだったはずだ。
気づけばラグは血まみれで、辺りは獣の死体で埋め尽くされていた。斬った、というよりは、重いものをぶつけて無理やり粉砕したという様子に吐き気がした。
自分の太刀には獣の血がべっとりとつき、髪も顔も、腕も、血で汚れていた。
「………………」
呆然とした。
なにが起こったのか、ラグは理解してしまった。
戦闘でラグは傷つき、その傷は治っていない。ということは、死影にはなっていない。
ならば……死影ではなく。
「……バーサーカー……」
死影になる呪いではなく、精神を狂わせ戦いに赴くように呪いをかけられたのだ!
恐怖におののき、ラグは剣を手放した。剣が地面に乾いた音をたてて落ちる。
駅の近くの町に住んでいた魔術師を訪ね、診てもらうとラグの予想は当たっていた。
いずれ意識が完全になくなり、戦いだけを求めて彷徨うことになると。
三流以下の魔術師に一発で言い当てられるほどなのだから、強力な魔術に違いない。しかも、禁忌の魔術の分野だ。
持っていたお金の半分を払い、魔術師に魔封具を作らせた。1日がかりで作ってくれた彼はかなりの親切者だったのだろう。
封じられた呪文はそれでも進行すると彼は言っていた。
そして帝都に行けば、魔法院がある。そこで解除できるかどうか訊いたほうがいいよ。――とも。
ラグは急いで帝都に行くために残っていたお金を使い、『ブルー・パール号』の三等客室をとった。弾丸ライナーを使わなければ、帝都に戻るまでかなり時間がかかる。
希望を抱き、ラグは列車に乗った。
だが…………彼の希望は打ち砕かれる。
世界最強の魔術師、ルキア=ファルシオンと乗り合わせたことで……魔法院ではこの魔術を解除できないことがわかってしまったからだ。
*
トリシアは、剣を振るうラグをただ見ていることしかできなかった。
哄笑をあげ、彼は剣をまるで棒切れでも振り回すように殺戮をおこなっていた。
たのしくて、たまらない。
たのしくて、たのしくて、たまらない。
破壊するのが、たのしくて、たまらない。
まるでそう言っているように彼は動く。
「う、あ、あ……」
トリシアは両手で顔を覆いそうになる。
飛び散る血の中で、舞い踊るように相手を殺すラグはもはやラグではない。
笑い声が響く。こだまする。
ひどい。ひどい。
逃げ出すこともできずに、ただ見ているだけのトリシアは自分が殺される予感が確実になっていくのを感じていた。
彼が「逃げろ」と言ったのに。
震える足でよろめきながら後退する。息が荒い。
にげなければ。それがラグの願いだった。
だが逃げていいのだろうか?
迷いで足取りがおぼつかなくなる。
結局、トリシアは転んでその場から動けなくなってしまった。
逃げてどうする? ラグを見捨てることになるのではないのか?
そう思うと、どうしても動くことはできなかった。逃げなければいけないとわかっていたのに。
ふっ、と陰が差した。
振り向くと、そこにラグが立っていた。瞳が爛々と輝き、いびつな笑みが浮かんでいる。
返り血で汚れた顔が、獲物を見つけて喜んでいた。
「ら、ぐ……」
咄嗟に腕で頭を庇う。瞼をきつく閉じた。
一刀両断される! 振り上げた剣が見えた。あれで、鈍器のように振り下ろされて、頭を潰されるのだ。
覚悟したトリシアは、頭の上でキィン、と金属音がしたのに気づき、ハッと瞼を開けた。
「大丈夫か、お姉さん!」
『彼』はそう言って、受け止めた剣を力任せに押し返す。
「よくわかんないけど、大変なことになってるみたいだ」
トリシアの肩を抱き、無理やりに立たせた『彼』をトリシアは驚いて見た。
褐色の肌。そしてペリドットの瞳。身長がトリシアほどしかない彼は間違いなくラグだった。
「ラグ!」
「ああ!」
元気に応えるラグは、トリシアを守るように不敵な笑みを浮かべる。
彼は不思議そうにこちらを見た。少年のラグはきょとんとする。
「お姉さん、なんでオレの名前知って……うわっと!」
青年ラグの攻撃を避けて、少年ラグがトリシアとダンスを踊るようにくるっと動いて距離をとる。
少年ラグは剣先を青年ラグに向ける。
「危ないだろ! お姉さんに当たったら、どうする!」
幼さの残る表情で言い放つ彼は、青年のラグよりも拙い帝国語を使っていた。
黒い包帯もしていない。幼いラグだということはわかるのに、なぜ彼が「分裂」しているのかわからないのだ。
「ディラグフェル=リウラが相手だ! 来い!」
セイオンの剣士が名乗りをあげる時は、相手を確実に倒す気でいる時のことをトリシアは知っていた。
セイオンの者は決してフルネームを明かさない。戦いに身を置く彼らは本名を名乗ることで、相手の死を知らせることを旨としているのだ。
今、少年のラグは青年のラグを殺すことを宣言した。
「お姉さん、さがって!」
勢いよく後ろ手で突き飛ばされる。少年は太刀を構えて青年のラグのほうへと突っ込んでいく。
下から振り上げるスタイルのラグの戦闘は、幼くても変わらない。
身の丈以上ある太刀を斜め下から振り上げるようにする少年ラグの攻撃を、ラグだった男は受け止めきれずに後ろによろめいた。
男は薄ら笑いを浮かべると、両手でブン! と剣を横薙ぎに振る。ラグはその反射神経でもって、右手から素早く左手に剣を持ち替えて真横からの攻撃を難なく受け止める。
顔を少ししかめるラグが相手を見遣る。
「少し痺れた」
そう感想を言うと、ラグの猛撃が始まった。
死を恐れない戦士である彼は確実に相手の首を狙っていた。一撃で吹っ飛ばす気なのだ。
男の攻撃を防ぎながら、相手にさらに攻撃を加える。優勢なのがどちらなのかすぐにわかる。
座り込んでいたトリシアははらはらしながら見守っていた。
「お姉さん」
囁き声がして、びくっとして振り向く。そこにはクイントがいた。彼はどこか疲労したような表情で、痛々しそうにトリシアを見つめていた。
「クイント……?」
どうしてここに?
「ラグに頼まれてたんだ……。早くここから逃げよう」
手を引っ張られ、立たされて走り出される。
わけがわからないトリシアは、背後を振り向く。戦いは終わっていない。
「クイント、ラグは……」
「いいから!」
走って、走って、ラグたちの姿が見えなくなったところでクイントは速度を緩めた。
「もしも……あいつが負けたら……」
小さく恐怖に怯えて呟くクイントは、その視線を馬車に向ける。なぜ馬車があるのだ?
馬車のドアを開けたそこでは、眠りについているルキアの姿があった。その横にはハルもいる。
「ルキア様に、ミスター?」
なぜ彼らがここにいるのだ?
相変わらず顔色の悪いハルは不機嫌そうに顔をしかめ、それから眠っているルキアを突き飛ばした。ルキアはしたたかに顔を壁にぶつけ、唸って起きた。
「痛い……。な、何があったのですか……?」
ぼんやりとした顔つきで欠伸をするルキアは、ぱち、と瞬きをしてトリシアのほうを見た。
彼は砂糖菓子のように甘く微笑む。
「ああ、無事でしたか。良かった。間に合ったんですね」
「あの、ルキア様」
「とりあえず乗ってください。これ以上離れると『ラグ』の意識が断絶するので、怖いでしょうけど我慢してくださいね」
「?」
背後のクイントに促され、トリシアは馬車に乗り込んだ。クイントもそれに続き、馬車のドアを閉めた。
頬杖をついているハル。それにこちらをにこにこと見ているルキア。妙な組み合わせだ。それに彼らとは、『ブルー・パール号』を降りてから会っていない。
つい最近のことなのに、随分と会っていないような気になってしまう。
「あの、ルキア様、どうなっているのですか?」
「どう、とは?」
「あの幼いラグのことです」
「あれは自分が作りました」
端的に答えるルキアにトリシアは目を丸くした。
「正確に言うと、ラグの頼みで作りました。ラグを殺すために必要だと言われたので」
「ラグを、ころす?」
では、彼はずっとそのことを考えていたのか?
「自分の手で自分を殺すのが最善だと、ラグは考えていました」
「どうして協力したんですか!」
非難するように叫ぶが、ルキアは動じない。
「彼自身が望んだからです。友人として、自分は彼に最大の協力を惜しまないと言っていました。嘘をつくわけにはいきません」
「ルキア様……」
「……添乗員」
ハルがこちらに視線を遣っている。
「ルキアを責めるな。ラグが言い出したことなんだ」
「それは、そうですが……」
それでも、納得できない。気持ちが。
「気持ちはわからないわけでもねぇけど、僕たちに始末を頼まなかったんだぞ、あいつは」
「え?」
「ルキアや僕に『殺してくれ』と言えば、どれだけ手っ取り早いか。僕はあいつに勝てるとはあんまり思わねぇが、ルキアなら遠距離で一発だろ」
「…………」
無言になるトリシアは、顔を歪める。
膝の上の拳をぎゅっと、握る。
自分の命を、他の誰かに背負わせたくなかったのだ……ラグは。だから自分自身の手でなんとかしようとしたのだ。
けれども意識を失くした彼は、彼自身にはどうしようもない。
心の力でどうにかなる問題ではない。人間の精神とは不安定で、頑強でもあるが、脆弱でもある。
どうすれば、誰にも背負わせないで自分の手で片をつけられるか。
きっとそればかり考えていたのだろう。
いつか来る、『この時』のことをいつも考えて。
そして……彼はきっと、トリシアの言葉を思い出したのだ。
自分にできないことなら、誰かに補ってもらえばいい。そうして、ルキアやハルに協力を仰いだ。
「『彼』は13歳のラグです。迷いも、恐れもまったくない……その頃のラグになら殺せるだろうと、ラグ自身が言ったのです」
ルキアの言葉を噛み締めるように、トリシアは「そうですか」と呟いた。