ラグは物凄い速度で走っていた。一直線に駆ける彼は、目標物を発見して薄笑いを浮かべる。
剣を振り上げ、素早く目標目掛けて投げた。
「ギャッ!」
短い悲鳴が聞こえて、彼はダン! とその場から跳躍する。
衝撃音を響かせて着地すると、相手は驚いて停止した。それはそうだろう。いきなり目の前に着地されたら、誰だって驚く。
相手は慌てて手に抱えていたものを落として、駆け去る。逃がすものかと追うラグは、自分が先程仕留めた敵につまずいて、転んだ。
派手に転倒しながら、ラグはうめく。妖しく瞬いていた瞳が、ふいに色を取り戻した。
「……いた、い」
なぜ転んでいるのか……。
そう思っていると、トリシアと目があった。彼女は尻餅をつき、驚いたようにこちらを見ている。
「あ、良かった。無事か?」
笑むが、彼女は顔を強張らせただけだ。
(ん?)
怪訝に思っていると、自分が血まみれになっていることに気づいた。
「…………あ」
転がっている死体を見遣り、それから視線をトリシアに移動させる。
(あ……)
どうしよう。どうしよう。
ここに来るまで、『何人』殺しただろう?
毎夜やってくる衝動を抑えたくて、郊外に出てはぼんやりと朝日を見るのが日課になっていた。昼間はしっかりと部屋に鍵をかけ、閉じこもる。
事件が起きてから、自分が犯人ではと思って怖くなり、ラグはとにかく人のいる場所を避けた。
昼間、心配そうにしていた自分にルキアは変わらず接してくれたので、少し気が緩んでいたのだろう。
(こわ、がら、せた)
怖がらせた。
起き上がるラグは、ぎこちない動きで自分の掌を見下ろす。血でべったりと汚れていた。
「ごめん!」
怖がらせた。
「ごめん……」
声がか細くなる。
これで見られるのは3度目だ。おかしくなる自分の姿と、この今の格好で言い訳はきかない。
どう切り出すか迷い、ラグは俯く。
(もうトリシアに近づいたら、ダメだ……)
わかっていたのに!
迂闊すぎた。自分の馬鹿さに情けなくなる。
言わないと。ここまできて、トリシアに伝えないなんて……いくらなんでもそれはない。伝えなくては、彼女も納得しないだろう。
「あの」
視線がさがる。自分の足元を見るようになってしまうのは、怖いからだ。
「オレ、この間言ったけど」
「…………」
「意識が、時々、その」
習った帝国語が吹っ飛ぶ。汗がにじみ、ひどく頭が混乱した。
「――――依頼先で、呪われたんだ」
ぽつりとそれだけ告げると、トリシアが驚いた気配がした。それは……確かに驚くだろう。相手を呪うだの、明らかに禁忌の魔術だ。
ルキアが専門外だと告げたのは、彼が禁忌の魔術に一切手を出していないからだ。そして専門家を教えてくれた。
訪ねた魔術師は禁忌の魔術を研究していたというが、途中でやめて、依頼を請けて品物を作る方向に切り替えたのだという。だからルキアは彼を助け、注意を促すだけにしたのだ。
「呪われたって?」
トリシアの質問に、うまく答える自信がない。ありのままを告げることが、ラグにはできなかった。
「そのままだ」
見たままなのだ。
それ以外にうまく説明できない。
歯を食いしばる。
一歩、後退した。
「だから、その、もう……近づくな」
「ラグ」
「近づくな……」
弱々しい声でそう言うと、目の前に彼女が立っていた。靴先が見える。
顔をあげられたと思ったら、彼女が真剣に睨んできていた。
「トリシ……」
「呪われたくらいなによ!」
怒鳴るように必死になってトリシアが言ってくる。
「一人で抱え込んで解決するの!? してたらこんなにラグは悩んでないでしょう?」
「トリシア……」
「悩んでるなら相談に乗るわ! 私じゃ力になれないなら、なれる人を探しましょう!」
力強く言う彼女のほうが、泣きそうに見えた。痛々しい表情をしている。
ああ、だから言いたくなかったのに。
震える手で、ラグはトリシアを抱きしめる。ゆっくりと……そっと……そして、強く。
風に震える、封印のための包帯。
「怖い……」
「ラグ……」
「怖いんだ……トリシア。オレは…………オレは、狂戦士化してる時のこと、全然憶えてないんだ」
だから。
「トリシアに乱暴なことをしてても、わからない……!」
泣きそうな声だった。
トリシアは必死に彼の体躯を抱きしめる。安心させるためじゃない。私はここに居るという合図のためだ。
ぎり、とラグが歯軋りをした。
「この呪いは侵食型だ……! いつ、オレの意識が乗っ取られるかわからない……!」
「それでも、『一人になる必要はない』わ!」
トリシアの言葉にラグの手が震えた。
彼は顔をしかめ、何かを堪えるような表情をする。
悔しそうに、もどかしそうに。
けれどもそれを振り切るように拳を作り、トリシアの身体をゆっくりと放した。
トリシアが不思議そうに見てくる。
(どうしよう……)
ラグは思っていた。
泣きそうだった。
嬉しくて。
悲しくて。
彼女はとても強い女性だ。セイオンの女性の持つ、『強さ』じゃない。心の優しい、心の強いひとなのだ。
だけどそれは、芯のところで、きっと彼女は脆い側面ももちろん持っているだろう。
すがりついてしまう自分が情けない。けれど突き放す勇気すらない。
ハルなら突き放すだろう。ルキアならその包容力で彼女を守ってやることだろう。
だが自分にはそれがない。
ラグにあるのは単純な『強さ』だけだ。セイオンの若者の中でも身長は高いほうだが、ラグは華奢な部類に入る。
それでも帝国人に力負けしないのは、セイオン出身者だからとしか説明できない。
セイオンの島々に住む部族はみな、戦いの神・デュラハを崇め、その子孫であることを誇りにしているのだから。
(どうしよう)
トリシアを特別だと完全に認識してしまった瞬間だった。
ラグは頭に血がのぼり、くらくらしてしまう。
大事に、したい。
同時に、破壊、したい。
相反する気持ちに混乱し、ラグは呆然と突っ立っていた。
「オレ……」
涙が零れた。
「トリシアが、好きだ」
告げて、彼女を見ると、ぽかんとしていた。
どういう意味か理解しようと必死という表情で。
「好きだ」
真っ直ぐに見てもう一度言うと、トリシアは取り乱しはしなかったが目を丸くして顔を赤らめた。
恥らうように俯きそうだった顎に手を遣って上向かせ、唇を重ねる。
驚くトリシアに何度も口付けをし、それからラグは今度こそ彼女から離れた。
離れるのが辛い。
辛い。
「さようなら」
綺麗に帝国語を発音して、ラグはきびすを返した。
これからやることが決まった。
(オレは自分を殺す)
それがトリシアを守る唯一の方法だ。
(その前に)
ラグは歩きながらその瞳をうっすらと光らせる。意識が混濁し始め、先程の敵へと嗅覚が向く。
みなごろし、だ。
*
……キス、された。
唖然として突っ立っていたトリシアは、ハッと我に返った。
こんな夜道で置き去りにされてしまった!
「ら、ラグ……」
追いかけるにも、彼はもういない。
おろおろしつつ、トリシアは宿舎までの道を歩き出した。
呆然としながら歩いていたが、ふいに思い返してトリシアは足を止めた。
(なに、流されて帰ろうとしてるのよ!)
慌てて戻って、ラグの駆け去った方向に向かって走り出す。追いつけるとは思えない。でも。
(キスしたまま『さようなら』とか、納得できるはずないじゃない!)
なにカッコつけてんのよ!
自分が危険になるとか、そんなことは考えなかった。
まるで道しるべのように、道のあちこちに、死体が転がっていた。思わず口元を覆いながら進む。
首が刎ね飛ばされている。
(……そうか)
この手口から、ラグは犯人ではないのだろう。たぶん。
それにトリシアをさらったのは、「一人」ではなかった。複数の者だった。
逃げていく相手が向かった方角がわかるのか、ラグは迷いのない足取りで進んでいるようだ。
また死体だ。
トリシアはそれを一瞥しただけで前に進む。
死んでいた男は、落ち窪んでいた目をしていた。いきなり体重が激減した人間のようだった。
(これは……)
栄養失調とか、そういう生ぬるいものじゃない。薬だ。薬漬けにされている。
ラグはその薬を追っているのだ。ハルではないが、トリシアでさえこの甘い香りを感じる。
ただの麻薬ではないことはわかる。ではこの者たちは何者だ?
*
一人、二人、三人……。
見かけるたびに首を刎ね飛ばすラグは、匂いだけを頼りに駆ける速度をおとさない。
薄笑いを浮かべている彼は、意識が完全に混濁していた。ラグの意識は、自分の所業を遠くから見るような感覚だった。
トリシアをさらったのは複数だった。すべて、人間だ。
小型のキメラを使うことからも、黒幕がいることはわかっている。
『渡り鳥』のメンバーもそれぞれ苦戦していることだろう。
ビュンッ! と剣を振るうと、通り過ぎざまに首が吹っ飛ぶ。
『死影』までとはいえないが、それに近い症状だ。甘い言葉に騙されて実験体になった人々だろう。
闇の魔術を研究する者はあとを絶たない。キメラや、人体実験がそのいい例だ。
甘い薬物の香りが強いほうへと向かえばいい。
純粋な戦闘を欲しているラグの肉体は、ラグの意志に従って動いている。今は、まだ。
こんな物騒な夜に歩いているものは、ほとんどが犠牲者となった者ばかりだろう。薬漬けにされたなら、もう助けることはできない。
生きた人間がうろついていないのだから、彼らの「食糧」は見当たらない状態だ。そこにトリシアがいたから、連れて行こうとしたのだろう。
(まだ、思考はできるのか)
だが、「だからどうした」と思ってしまう。
この手の麻薬中毒者は、助けられないと決まっている。
おぞましいことに、トリシアをねぐらに運び込んでみんなで食べようとしたのだろう。
事件で、惨殺死体がすり潰したような惨状だったのは、喰われた後を誤魔化すためだ。
(まずは拠点を見つけて、そこを叩く)
心の声に従うようにラグは笑った。
そこに戦いはあるのか?
あるとも。
そこに戦う相手がいるのか?
いるとも。
「……ヒャハハ……いいだろう……」
老人のような声を発してラグは剣を無造作に振るう。悲鳴をあげて逃げ出した男の首を刎ねる。
すでに意識を手放しつつあったラグは、強く思う。
どうか……どうか、関係ない人を無傷で見逃してくれるように、と!