Barkarole! パンデモニウム9

 下町までの道のり、ラグはあれこれとトリシアに気を遣って話しかけてくれた。
 列車の中でも彼はこういう時は率先して喋るし、黙っていたほうがいいと判断したならだんまりを決め込んでいた。
(ラグって、結構器用な性格、というか……場を読むのが上手いのね)
 暗い夜道を歩きながら、トリシアはちっとも怖くないことに驚く。
 月の光だけを頼りに歩いているというのに、怖くない。安い酒場でのいざこざも、今では思い出すこともなくなっていた。つい先程のことなのに。
 ラグは陽気に自分の出身の島のことを喋っている。
「じゃあラグの住んでいた集落は本当にすごく小さいのね」
「ああ。セイオンは集落があちこちにある。それぞれ交流してるけど、色々違ってて面白い」
「どういうところが?」
 興味をそそられて尋ねると、ラグは歩調を緩めて横に並んでくれた。
「例えば食べ物。密林にある植物を採って食べるのが主流の集落もあれば、魚を獲って生きる集落もある」
「へぇ〜。それぞれで色々あるのね」
「住んでいる場所によって、色々工夫している。トリシアは、好きな食べ物とかあるか?」
「え? 私は嫌いなものはないから……。強いていうなら、マハイア駅のところで売っている揚げパンが好みね」
「ああ! あの屋台で売ってるやつだな。オレも好きだ」
 ニカッと笑われ、トリシアは目を丸くする。不覚だ。
(ちょ、ちょっとドキッとしちゃった……)
「オレ、トリシアと同じで苦手なものない……と思ってたけど、最近あるものが苦手だって気づいた」
「え? なに?」
「ネバネバした食べ物、ちょっと苦手だ。なんか……食べにくい」
「そうなの」
 そんな他愛無い会話をしていると、あっという間に宿舎まで着いてしまった。
 暴漢に襲われることもなく、トリシアは気分が良いまま到着できて満足だ。それもこれもラグのおかげだ。
「到着」
 そう言ってラグは手を放した。なんだかその温もりが離れてしまうのが寂しい。
 トリシアは頷き、「ありがとう」と言う。すると彼はくすぐったそうに照れて「気にするな!」と元気よく応えた。
 宿舎に入るまで彼はそこに居てくれて、トリシアが手を振ると振り返してくれる。
(……なんか、ものすごく贅沢な気分……)
 いいのかなあと思いながらトリシアは宿舎玄関のドアを閉めた。
「おや、おかえり」
「っ!」
 声にぎょっとすると、ペトラが洗濯物の入ったカゴを抱えてちょうど通りかかったところだった。
「顔が真っ赤だけど、どうしたね?」
「なっ、なんでもない!」



 トリシアに手を振り返して彼女が宿舎に入ったのを見届け、ラグはほっと安堵の息を吐いた。
(気づかれなかった……)
 良かった。
 ずっと手を握っていたのは、自分のためだ。そんな弱さに、彼女が気づかなくてよかった。
 きびすを返して、来た道を戻るラグは空を見上げた。ぽっかりと浮かぶ月は青白い。
 今の心細さには、ちょっと頼りない。
(強くなりたい……)
 昼間に寄った店の店主の言葉を思い出す。
(ルキアに相談したところで……たぶん、解決しない)
 望みがあるかもと思って帝都まで来たのに……。
 絶望感が心を占拠していく。油断していると、足元が真っ暗闇になりそうだった。
 まだ一ヶ月だ。
 それなのに……。
 自分の足音だけが響く。
 夜に出歩くのは、酔っ払いか、見回りの役人か、娼婦か、その娼婦を買う男か……。
 ラグはそのどれにも当てはまらないが、歩き回る人がいないことから、西区が治安が良くても周囲への警戒を怠らないことを感じ取る。
 たった一ヶ月で自分は随分と変わってしまった。迷うようになったし、こんなに寂しい。
 自分自身が可愛いのか? それとも……?
 今まで迷うことはなかった。ただ真っ直ぐに前だけ見て進めば良かったのだ。自分の思う正義のために動いているだけで良かったのに。
 ああ……。
(トリシア……)
 顔を片手で覆う。瞳が妖しく輝く。
「ぐちゃぐちゃに壊してやりたいって考えるんだ……」
 まともじゃない。おかしくなっている、自分は。
 彼女が笑顔を向けてくると、凶悪な気分になるのだ。それを悟られたくなくて、たくさん喋った。
 手を顔から離して、視線をまた空に向ける。
(デュラハよ……オレは、あの時のことは後悔してない。だけど、もしも)
 もしも。
 そうだ。
 目を見開き、足を止める。
 もしも、だ。
「………………」
 そうだ。そうだった。考えなくては。
 可能性として、考えなくては。
 ああでも。でもどうしたらいいんだ?
 誰かに背負わせるには、命は重いものだ。いくらこの世界ではそれほど重要視されない問題でも。
「オレ……できるかな」
 誰にともなく呟く。
 できるかな?
 その時がきたら、できるかな?
 ラグの疑問に誰もこたえてくれない。こたえられない。だってそれは未来のことで、ここにはラグ以外はいなかったのだから。
「………………」
 無言になるラグの両目が闇の中でうっすらと輝き、虚ろになっていく。



 次の日、騒ぎに気づいてトリシアは目を覚ました。
「えっ、えっ!?」
 窓に駆け寄って、薄いカーテンの隙間から外を覗く。
 エミリが通りに立ち、なにやら人々と話し合っていた。
(エミリ先輩?)
 慌てて身支度を整えて階下に降り、外に出る。
 表の通りでは腕組みしているエミリがトリシアに気づいて大きく手を振った。
「エミリ先輩、何かあったんですか?」
「南区で、娼婦が何人か殺されたんですって」
「え?」
 殺された?
 物騒な事件にトリシアは眉をひそめる。
 エミリは腰に片手を当て、嘆息する。
「しかもかなり酷いみたい。まぁ、あそこは治安がそれほどいいとはいえないし、犯人は見つからないかもしれないわね」
 それはそれで怖い話だ。犯人がこの区域に居るかもしれない、ということになる。
「詳しいことはわからないわ。とにかく用心するしかないわね」
「……そうですね」
 にわかに昨日の恐怖がよみがえり、トリシアは青くなる。
 ラグは無事に帰れただろうか?
 心配してしまってから、ハッと我に返る。考えてみれば彼はセイオンの剣士なのだ。そこらのゴロつきなど、足元に及ばないほど強いのである。
(……バカね、私)
 エミリが喋っていた者たちに「ありがとー」と言っているのが聞こえて、トリシアも宿舎に戻ろうときびすを返した。



 アルミウェンの酒場でも、娼婦惨殺事件のことは早速情報として流れてきた。
 朝っぱらから酒を飲んでいる者もいるので、ラグは無言で座り、朝食を注文する。
(娼婦惨殺……)
 一つ一つの単語を思い出し、ラグは眉をひそめる。
「おはよ、ラグ」
 クイントは、簡単な朝食を運んできてくれたらしい。テーブルの上に皿を置いてくれる。
「おはよう、クイント」
「へへっ、発音、上手くなったじゃん」
「そうか?」
 嬉しくて微笑むと、ラグのほうをクイントが真剣に見てきた。
「下町の南区で、娼婦が何人か殺されたんだって、昨日の夜」
「みたいだな」
「あの、トリシアお姉さん、無事に帰れた?」
「ああ」
 自信を持って応えるとクイントは安堵したようだ。
 そして長く息を吐き出した。
「よかったー。途中で襲われたとかじゃなくて」
「オレがついているのに、それはない」
 きっぱりと言うとクイントはげらげらと笑う。その通りだ。ラグがついているのに無用の心配だった。
「俺としては、狼に変身しなかったラグがすごいと思うよ。あのお姉さん、結構可愛いし」
「? お、オレ、狼じゃなくて人間だ」
「ああはいはい。比喩表現は苦手だっけね」
「クイント」
 咎めるような声音になると、クイントは愛嬌のある表情で苦笑した。
「ごめんごめん。でもさ、ラグの帰りが遅かったからやっぱり心配だったんだって」
「なんの心配だ?」
「色々と! でもあのお姉さんが無事なら、それでいいや」
「…………殺された娼婦、なにかしていたのか?」
「さあ? 客引きでもして道に立ってただけだって思うけど、違うのかな」
「……そうか」
 無言になるラグは、静かに朝食を食べ始める。様子がおかしいことにクイントは疑問になった。
(随分と帰りが遅かったし……)
 最初は戻ってこないのかと思っていたが、クイントが自分の部屋でうとうとし始めた頃にラグは戻って来た。
(……そういえば、昨日ラグはなにしてたんだろ)
 トリシアを送っていくだけなら、それほど時間を要しはしないだろうに……。
 あ。あれ?
 ふいに気づいてクイントはラグをうかがう。
(まさか……ね)
 南区に寄っていたとか、そういうことじゃない、よね?
 一度浮かんだ疑問はなかなか頭を離れてくれない。
「なっ、なんだ? なんで睨む?」
「え?」
 怪訝そうにするクイントは、知らずに自分がラグを睨んでいたことに気づいて笑って誤魔化した。
「……いや、ちょっと」
「ちょっと? ちょっと、ってなんだ?」
「あのお姉さんて、本当にラグのなんなの? 恋人じゃないの?」
「違う」
 即答されてしまった。もぐもぐと口を動かしながら、ラグは優しく笑った。
「でも、いい子だと思う」
「そう! やっぱりそうだよね!」
 やはり自分の人を見る目は間違いではないようだ。自信がむくむくと育っていく。
「でもさー、ラグとお似合いだと思ったんだよ。あのお姉さん、なんていうか、偏見なしにラグを見てくれてるしさ」
「……そうだな。トリシアは、優しい」
 お似合い、の部分は首を傾げられてしまう。
「けっこう気が強そうに見えたけど、優しいんだ」
「気も強い。あと頑固。真面目。がんばり屋だ」
 するするっと喋るラグにクイントが目をむく。
(えっ、ええっ!? なんでそんなするすると単語が出てくるわけ?)
 こ、これは変に勘繰ってしまいそうだ。
 女っ気がまったくないラグにとうとう恋人でもできたかと思ってしまったが、違うようだし。でも……。
(怪しい……。好きなんじゃないの、あのお姉さんのこと)
 いや、でも待て待て。
(だとしたら、もし昨日娼婦とか買ってたらすごい軽蔑しちゃうよラグのこと! え? でもなぁ……ラグがそんな器用なことできるとは思えないし)
 女性にモテないことはないのだが、基本的にそういうことには疎いラグだ。他者の機微に聡いくせに、変なところでにぶいので、クイントとしては困ったものだった。
「あのさー……ラグって、なんか気になる女の人とかいないの?」
 もう年齢的にもラグに恋人がいてもおかしくない。心配して尋ねると、ラグはもぐもぐとパンを千切って食べながら、首をまた傾げた。
「気になる? トリシアのことか?」
「えっ! やっぱりそうなの!?」
「ああ」
(な、なにー!)
 衝撃を受けるクイントに、ラグは真剣な表情になって手に持つパンを見下ろす。
「あんなに頑固で、でも仕事中はすごく割り切ってて、すごいなって思うぞ。オレも見習いたい」
「…………なんだよそれはぁ」
 はぁー、と嘆息して肩を落としてしまった。色気ゼロな回答だ。
 やきもきして、持っていたトレイをクイントが振り回す。
「あーもう! 心配してるのに!」
「なにをだ……? クイント、振り回してると危ないぞ」
「なんでもないよ!」
「なんでもないのか」
 納得していないようだが、ラグは無理やり頷いた。
 そういえば気になっていたことがある。クイントはラグのほうを見て、動いている腕を見下ろす。
「あのさー」
「ん?」
「その魔封具、どうしたの?」
 今回の仕事の前まで、こんなものをラグはつけていなかったはずだ。
 ラグはこちらをじっと見つめて、それから自身の腕を見下ろす。
「誰かに変な魔術かけられたわけ?」
「まあ、そんなところだ」
「ふーん」
 朝食を食べ終えるとラグは両腕を隠すように外套の中に引っ込めた。それがますますクイントには不自然に思える。
 戻ってきてからのラグは奇妙なことが多すぎる。
 まず、女性をここに連れてきた。知り合いというには、親しい気がする。
 それに魔封具。クイントに魔術の知識はないが、魔封具を使うということは、なにかを「封じている」ということだ。
 時々している物憂げな表情も、変だ。前のラグならこんな表情をしなかった。
(元気ないしなぁ……)
「心配するな」
「えっ」
 心の呟きを聞かれたのかと思ってぎょっとすると、ラグはぽんぽんとクイントの頭に手を置いた。
 大きなラグの手、だ。『渡り鳥』の中でも才能ある、剣士の手。
 こうして相手の気分を察知して、先回りをして慰めてくれるのだから……彼は優しいのだ。とても。
(恋に悩んでくれてるなら、まだいいんだけど)
 だが魔術絡みで悩んでいるなら自分には手出しできない。
(あっ、そうか。ラグってにぶいから、気づいてないだけなのかも)
 さっきも真剣な顔で大ボケをしていたし……ありえないことではないだろう。
 ここは緩く見守っていくべきだろうか。
「クイント、なにか急ぎの依頼はあるか?」
「え?」
 ラグが仕事の話題を切り出すのはいつものことなのに、クイントはなぜか油断してしまっていた。
 ぽかんとしてしまうと、ラグは「ないのか」と残念そうにした。
「ま、まぁ、ラグに名指しでの依頼はないよ、今は」
「……なにかあれば、言え」
 端的にそう言うなり、ラグは立ち上がって店の2階へとあがって部屋に戻ってしまう。
 見送ったクイントは眉をひそめた。

 部屋に戻ったラグは素早くドアを閉め、小さく呟く。
「娼婦殺害……」
 彼の口元が笑みを作るのに、そう時間はかからなかった。

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