Barkarole! パンデモニウム8

 闇が近づいてくる。
 闇が一歩ずつ、着実に迫ってくる。
 ラグは夜の闇には慣れていたが、心を占めていく闇には不慣れだ。
 ラグは太陽が好きだった。明るい場所が、そして人々の笑顔が好きなのだ。
 だから。
 その逆の象徴は嫌いだった。
 人の悲しみや苦しみは苦手だったし、幼い頃から本土で苦しんでいる人たちをなんとかしたいと考えてきた。
 あまり賢いほうではなかったが、帝国語を懸命に勉強した。それでも日常会話までしかできないし、読み書きは苦手なままだ。
 ラグは単純明快なほうが簡単でわかりやすく、だから人命救助に自分の一生を捧げようと誓った。
 困っている人を助ける。自分の持てる力でできる範囲だが。
 ラグとて身の程というものを弁えていた。貴族には逆立ちしたって太刀打ちできない時もあるし、力が及ばずに助けられないことだってある。
 だからと言って、最初から諦めることはできなかった。やってみて無理だった時に、諦めればいい。
 単純な性格だと笑われることも多かったが、難しいことを考えるよりも行動したほうが早い。
 セイオンの島々に住む人たちは恵まれている。豊かな自然の中に囲まれて暮らしている、と表現できれば帝国がこぞって狙ってきそうだが……そうではない。
 セイオンの島々はほとんどが密林に埋め尽くされている。そのあちこちに集落を作って人々は暮らしていた。
 自然と共存していた。
 けれども戦いの神・デュラハの子孫として生きている彼らには戦士の血が流れ、優れた身体能力を発揮できる場所を求めた。
 本土だ。
 本土に行き、傭兵として暮らすこともセイオンの者には多い。男も女も、島の暮らしではなく己の自己主張の場に本土を選ぶことが多い。
 けれどセイオンの島の人口は少ないので、本土でそうそうにセイオンの者を見かけることはなかった。
 帝国人は皆、肌が白く、弱々しい印象が強かった。本土にラグが渡った時は、13歳の頃だ。
 職業登録をするために舟に乗り、そして本土へと渡り、そこからは鈍速の列車に揺られて帝都までやって来た。
 ラグは傭兵になると決めていたので迷うことはなかった。あっさりと受理されて、拍子抜けしたくらいだ。
 まずやることは、所属するギルドを決めること。
 傭兵は一人ではできない。所属するギルドが責任をとることになっているからだ。
 選り好みできる立場ではないので、直接あちこちを見て回った。
 中央広場にある酒場のほとんどを拠点としている傭兵ギルドに13歳の姿で入るには、勇気が必要だった。
 ラグは運が良かったのだ。
 一番最初に入ったのが、『渡り鳥』の拠点としている酒場・アルミウェンだったのだ。
 傭兵ギルドの拠点となる酒場には、入り口のドアの上に紋章が描かれることになっている。たまたま、描かれていた鳥の絵がかっこいいなと思ってラグはその扉をくぐって中に入った。
 ラグは歓迎された。そして仕事をするようになったのだ。請け負う仕事のほとんどはやはり人命救助。
 低賃金でも仕事を請け負うということで、ラグはどこの村でも集落でも重宝された。
 できれば賃金を受け取るのも遠慮したいところだったのだが、それではラグが生きていけない。
 基本的にお金を生きること以外には使わないので貯まる一方だった。13歳から5年間かけて貯まった財産は、かなりのものだろう。とはいえ、それでも貴族の蓄えとは比較にならないが。
 着実に、確実に仕事をこなしていくので、難しい依頼も増えていった。
 ラグは傭兵の世界ではある程度の知名度を手に入れた。ルキアに比べれば、弱々しいものではあったが。
 そして……悲劇は起こった。
 ラグは依頼を請け負い、そして、成功させた。犠牲者の数は1名。――自分だ。



 アルミウェンと書かれた看板を掲げる酒場に引っ張り込まれ、トリシアは目を丸くした。
 賑やかだった酒場の内部は、ラグが入った途端に水を打ったように静かになったからだ。
「ラグ……」
 誰かが彼の名を口にした。がたりがたり、と音をたてて立ち上がる人がいる。
 繋がれた手を一度だけ見下ろし、トリシアは困惑したような視線を周囲に向けた。
 誰もが、一人で飲んでいた場所から近づいてくる。いや、近づいてこない者もいた。
「無事だったんだな!」
 威勢のいい声を発して、背の低い少年が駆け寄ってくる。帽子を深く被った少年はラグの目の前まで来てから、トリシアの存在に気づいて目を丸くした。
「…………だれ?」
「トリシア。『ブルー・パール号』の添乗員だ」
 簡潔に説明するラグの言葉に、酒場内がざわついた。トリシアは頬を赤くして、軽く会釈をする。
「『ブルー・パール』って、弾丸ライナーのか?」
「へえええ!」
「こりゃ驚いた。可愛いお嬢さん、ようこそアルミウェンへ!」
 寄ってくる男たちはある一定の距離を保って二人を囲み、口々に言ってくる。
 酒場に入ることなど滅多にないトリシアは曖昧な笑みを浮かべていた。
「ラグ、今回は早かったね」
 元気に、はしゃいだ声を出してきたのは先程の帽子の少年だ。顔をあげると、子供だった。
 彼はこちらを見遣り、にやにやと笑う。
「もしかして、ラグのコレ?」
 恋人? というようにサインを送ってくる少年にラグはきょとんとした。下町で流行っている合図だったのだが、彼には通じないようだった。
「ん? なんだ?」
「…………いいよ。ラグがニブちんだってこと忘れてた」
 呆れたように笑う彼は、トリシアのほうに視線をまた遣ってくる。
「初めまして、お姉さん。俺はクイント。このアルミウェンは親父が経営してる店なんだ!」
「初めまして」
 微笑するトリシアに見惚れるような表情をして、クイントは目を逸らした。……なぜか照れている。
「……なんか新鮮っつーか。ここに来るのって、どんな女も乱暴だしさ」
 小さくもごもごとしながら言うクイントは、もう一度視線をあげてトリシアを見てきた。
 ルキアより身長は高いだろうが、ルキアよりも若いだろう。かなり幼い。それにしてはしっかり者の印象を受ける。
(傭兵の女の人と私じゃ、かなり違うと思うけど……)
 それでもトリシアはクイントに悪い印象は受けない。あどけない表情と、それに勝る賢さが彼には見てとれた。
「よろしくね、お姉さん」
 念押ししてくるので、トリシアは頷いてみせる。するとクイントは嬉しそうに笑った。
 ラグは色々な人に話しかけられていたが無言で返しており、ふいにクイントに視線を走らせると短く告げた。
「二階の部屋、どこか空いてるか」
「え? 一番端が空いてるけど……え、ちょっとどこ行くのさ、ラグ!」
 クイントの叫びを無視してラグはトリシアを引っ張り、店内に設置されている階段をのぼっていく。トリシアは事態が理解できなくてきょとんとしていた。
 男たちは口笛を吹き、クイントは心配そうにこちらを見ている。
 なんだ? ……え?
 トリシアは視線をラグの背中に戻す。
 ラグに限って何かされることはないだろうが、なぜ彼は何も言わないのだろうか?
 2階の端まで歩き、ドアを開けるとラグがずかずかと中に入っていく。トリシアもそれに引っ張られた。
 ラグはくるりと振り向き、トリシアの手を放してドアを閉める。
 完全に二人っきりになってしまった。
 視線を床に落としてその場に突っ立っているトリシアは、混乱していた。
 いきなりこの酒場に連れて来られて、この部屋に連れ込まれて。
 先程の危険な状態の彼を見ているだけに、自分の置かれた状況が危ういものだと認識している。
 はぁ、とラグが息を吐き出し、彼の足がこちらに向いた。……ということは、彼はこちらを見ていることになる。
 緊張、した。
 妙な期待をしていたわけではない。ただ、自分の身が、この状況がおかしな方向に、例えば……先程のようにラグがおかしくなったら……ただでは済まないと自分自身に言い聞かせていたのだ。
(ドアの前にはラグが立ってる。そこからは逃げられない)
 俯いた状況では室内を把握できないのはわかっているが、顔をあげられなかった。
 ラグがためらいがちに手を伸ばしてくるのが視界の隅で見えた。
 と。
「怖かったか?」
 その手はだらんと元の位置に戻ってしまう。
 顔をあげたトリシアは、情けない表情になっているラグに驚いた。
「オレ、またおかしなことに、なってた? 違うか?」
 違わない。
 トリシアの強張った表情から読み取り、ラグは苦い笑みを浮かべる。
「……そうか」
 悔しそうな声。
「怖がらせて、ごめん」
 頭をさげるラグに、トリシアは慌てた。
「ラグは私を守ってくれたわ! 謝ることはないのよ!」
「…………」
 彼はなかなか頭を上げようとはしない。とうとうトリシアは彼の両肩に手を置いて、揺すった。するとやっと彼が顔を上げる。
 まるで道端に捨てられた子犬のようだった。行き場がなく、所在なげにしているラグは泣きそうな表情だった。
「明日、ルキアのところに行って来る」
「え?」
「だから、安心しろ」
 頷くラグにどう答えていいのか……。
 彼はしばらく無言だったが、瞳を伏せて切り出した。
「オレ、時々、ああなるんだ」
「え? あ、あぁ……さっきの酒場みたいな」
「どんな風になってるのか知らない」
 はっきりと言い切ってラグは似合わない苦笑を浮かべる。
 なにを言えばいいのかわからなくて、トリシアも言葉を詰まらせた。
 慰める? なにを? 彼の事情なんてわからない。ラグは言う気もないようだ。
 だったら、踏み込めはしない。自分だって言いたくないことを、突っ込まれたりしたら嫌だ。
(こんな……泣きそうな、顔……してるのに。気の利いたこと一つ言えないなんて)
 情けない。
 トリシアは項垂れそうになる。
 自分は器用な性格ではない。だからこそ、こういう時にどうしたらいいのかわからないのだ。
「あの」
 ラグの声にハッとしてすぐさま「なに?」と訊き返す。
「送って行く。あと、さっき、何が起こったか教えてくれるか?」
「え、ええ。さっきの斧の人とラグが戦っている最中にね、封印布が少し傷ついたの。そうしたら、ラグが……ちょっと変わったわ」
 適切な表現が見つからない。
 文字通り、彼は豹変してしまったのだが……。それを告げることはあまりいいことではないような気がした。
 ラグは露出している部分に巻きつけてある包帯を確認し、切れ目が入った部分を見つけて「ああ」と、小さくぼやいた。
「でもすぐに元に戻ったわよ」
 事実を告げると彼は「そっか」と小さく言って、……それから溜息を吐き出した。
 いつも元気な彼に不似合いな動作に、トリシアは不気味に思ってしまう。
 暗い表情でいたが、ふいに息を吸い込んでラグは自分の両頬をぱしんと掌で打った。小気味いい音だ。
「よし! じゃ、トリシア、送って行く」
 ドアを開けると「ほら」と手を差し出してくる。
 まさか……また手を繋ぐ気だろうか……。恥ずかしいのだが……。
 しかし差し出された手を放置しておくわけにもいかなくて、トリシアはそっと手を出す。すると、ぎゅっと握られた。
「トリシアの宿舎、どのへんだ? 近いか?」
「下町の西区にあるの」
「したまち」
 妙な発音になっている。彼は頬を赤くして、それから部屋の窓から外を見た。
 すっかり夕暮れを通り越して、夜になっている。
「あ、あぁ……えっと、じゃあ……」
「なにをそんなにうろたえてるの?」
 気になってつい尋ねてしまうと、ラグがぎょっとして目を瞠ったのがわかった。トリシアを凝視し、それから露骨に視線を避ける。
(え? なに? なんなの?)
「……し、下町の夜、女の人がいっぱい」
 たどたどしい帝国語が、さらに拙いものになっている。悲惨すぎる。
 納得したトリシアは、苦笑した。
「大丈夫よ。西区には娼婦はいないの。彼女たちが商売をするのは南区だけなのよ」
「え? そうなのか?」
 どうやらラグは以前娼婦たちに絡まれたことがあるようだ。
(お気の毒に……)
 そう思うしかない。傭兵は一夜の相手にと娼婦を買うことがよくある。それに、ラグはその外套の背中に大きく『渡り鳥』の紋章をつけている。客が来たと娼婦たちが思うのは当然だろう。
 ラグは恥ずかしそうに後頭部を掻く。
「オレ、ああいうの苦手だ」
(そうでしょうね)
 純粋培養の塊のようなラグのことだ。娼婦たちを振り切るにもかなり苦戦したことだろう。
 良かった、と晴れやかに笑うラグは……まるで太陽のようだ。トリシアは手を握られていることなどどうでもよくなり、微笑む。
「じゃあトリシア、送って行く。大丈夫。守る」
 自信満々に空いているほうの手で胸をどんと叩き、彼は廊下に出た。部屋のドアを手早く閉めて歩き出すと、階段のところで壁に背を預けているクイントの姿が見えた。
 彼はこちらに気づいて顔を輝かせる。
「ふー。なんだ早かったんだね。……そっか、杞憂か」
 わけのわからないことをぼやいているクイントに、ラグがきょとんとした。
「ちょっと話してた。クイント、何か用か?」
「いや、『渡り鳥』の連中、ラグが女を連れ込んであれこれしてるぞって噂してるから……、あんまり行きづらいかなって」
 下に、と指差すクイントの言葉の意味を、ゆっくり咀嚼するように理解していたラグは、一気に耳まで真っ赤になった。
「オレ! トリシアに変なことしてない!」
「いや、うん、早すぎるからそりゃわかるけど……」
「? 早い?」
 理解不能な単語が出てきたとばかりにラグは眉をひそめる。
 横で聞いていたトリシアのほうが恥ずかしかった。さすが酒場だけあって、みんな遠慮がないことを言っているようだ。
 クイントはわざと遠回しに言ってくれたが、きっと階下では露骨にラグとトリシアのことをあれこれと想像されているだろう。
「クリント、オレ、難しい言い方をされるとわからないぞ」
「……いや、わからないほうが幸せだと思うよ……?」
「???」
 不機嫌そうにするラグに、アハハと乾いた笑いを洩らすクイント。
 遣り取りが面白くて、つい笑ってしまいそうになるのをトリシアがぐっと堪えた。
 気を取り直してラグはトリシアのほうをちらっと見てから、クイントに説明する。
「彼女を宿舎まで送って行く。さっきの部屋、泊まることにする。それから、明日馬車で出かけるから、朝食もお願いしていいか?」
「オッケー。送りオオカミにならないようにね」
「オレ、狼じゃない……」
「はいはい。じゃ、行ってきなよ」
 クイントは楽しそうにラグの背中をばん! と叩いた。とはいえ、子供の力なのでそれほど強くはなく、ラグは平然としていた。
 階段を降りていくトリシアに、クイントが声をかけてきた。
「ね、お姉さんの宿舎ってどこ?」
「下町の西区よ」
「ああ。治安が一番いいところなんだね。そっか。じゃあ俺も遊びに行けるな」
「あそこは男子禁制よ。来る時は注意してね」
 笑って教えてやるとクイントはそれでも嬉しそうに「わかった」と頷いた。
 階下に降りると一斉に店内が静まり返る。
 その中を突っ切って、ラグは外へと出た。本当に度胸がすごい。
 トリシアは彼の背中を見ながら、唖然としていた『渡り鳥』のメンバーたちを思い出してちょっと笑いそうになってしまった。

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