Barkarole! パンデモニウム7

 ――意識が途切れた。
 そう自覚して、瞬きをするまでラグは呆然としていた。
 空を見上げるともう夕暮れだ。あの魔術師を訪ねてから、それほど長時間意識がなかったのか?
(2、3時間?)
 ふいに広場でキメラ売買をしていた女を見かけて、注意をするために追いかけた。
 以前は「二度とやらない」という約束で見逃したというのに……。
 追いかけていたら、ふいに意識が「飛んだ」。
 そして、今はここにいる。
 ズタズタにしたキメラの死体を見て、自分の剣を見て、地獄絵図のようだとしか思えなかった。
 人は殺していなかったようで安堵したが、辺りに飛び散った血痕の範囲が広いことから、相手を傷つけていないとは言い切れない気がしていた。
(あの魔術師の言ってたとおりだ)
 ラグにかけられた魔術を見抜いたあの男は、ラグに忠告していたのだ。
 ラグの封印布はよくできているという。だが、かけられている魔術が強力『すぎる』し、不安定なのだとか。
 魔術の進行速度が把握できないし、いきなり速くなったり、かと思えば遅くなったりするのだそうだ。
(それって、オレの意識がなくなる時間も、長かったり、短かったり……)
 ゾッとするラグは剣を鞘に収める前に血を振り払う。軽々と鞘におさめてから、このまま去るわけにはいかないと役所に行くべく歩き出した。
 真面目に役人に言っても無駄なのはわかっていた。製造を禁止されているキメラは、魔術の実験にはもってこいだったが、役人の手には余るものなのだ。さらに上の軍が処理しなければならない問題なのだが、どれほど取り締まってもキメラ売買はなくならないのだ。
(軍、か。そういえばルキアに自宅の住所のメモもらった……)
 いつでもいらしてくださいね、とは言われたが、ルキアに直接会えることは今後ほとんどないだろう。
 やはり彼は貴族だし、軍人だ。一介の傭兵の友人であるべき人間ではない。
 そもそも雲の上のようなところにいるルキアに助けをこうような問題ではない。

 役人に事情を話して、それから通路の掃除を終えてからラグはやっと安心できた。
(やっぱり、一気に魔術が進行したのか……?)
 でも魔術師ではないので、詳しいことはわからない。
 そろそろ『ギルド』にも顔を出さなければならない。宿もとっていないし、次の依頼に行く用意もしなければ。
(……次)
 つぎ、って……大丈夫か?
 ざわりと心が落ち着かなくなる。
 混乱しながら歩いていると、ふいに誰かが目の前に立った。憶えのある気配にラグはきょとんとする。
「……ハル?」
 なぜ彼がこの中央広場にいるのだろう? ああ、いや、居てもおかしくはない。
 ここは乗合馬車の中継地点でもあるし、ここで降りる平民は多い。
 腕組みをしている彼は、片手に持っていた懐中時計の蓋をパタンと閉める。
「話せ」
「え?」
「おまえにかけられてる魔術のこと、話せ」
 淡々と言うハルは警戒するようにこちらを睨んだ。
 ハルが相手の領域に踏み込もうとしている。
「……言えない」
「じゃあ訊くが、おまえには双子の兄弟でもいるのか?」
「双子? いや、いない」
「………………」
 考え込むように黙ってしまったハルは、夕闇の中で真剣な表情だ。
(あ……もしかして、さっきの見たのか?)
 だったら。
 何が起きたか聞けるかもしれない。ラグは頷いた。
 ハルは信用できる男だ。打ち明けるのは、これで3人目になる。もしもルキアを頼るなら、彼にも打ち明けなければならないだろう。

 事情を説明すると、ハルは納得したのか先程起こったことを話して立ち去っていった。
 ハルは他人の秘密を無闇に吹聴するタイプではないので安心だが、言いたくないことは頑として言わない男だ。
(嘘はついてない感じだったけど、様子がおかしかった)
 ハルが目撃したのは、キメラを殺したあとだったという。キメラを売買している女はハルと一緒に逃げたらしい。女は役人に突き出してきたので、捕まっているらしい。
 物凄く端的に説明された……。
(しかも面倒そうだった……)
 ハルはとにかく気難しい表情で始終いて、舌打ちしながら淡々と要所だけ説明したのだ。
(オレをどうこうする気はなかったみたいだが)
 ずっと睨まれていたので、怒っていることだけはわかった。とはいえ、ハルは基本的にいつも怒っているので、いつものことかと思ってしまったのだが。
 一定の距離を保たれていたことからも、ハルが随分とこちらを警戒しているのは伝わってきたので、キメラを殺した際にハルにも迷惑をかけたのでは? と思って尋ねたが一蹴されてしまった。
(なにも殴ろうとしなくていいのに)
 拳を振り上げて牽制するハルに、さすがにラグは身を引いてしまったのだ。……あまり深く聞こうとすると、殴られていたことだろう。
 広場を見回す。人々が行き交う場所で、とても賑やかだ。屋台も出ているし、酒場と宿屋が多くひしめいている場所だ。
 エル・ルディア駅の付近ではなく、ここで宿をとって休んでから、列車に乗る旅人も多い。逆に、ここに滞在する地方人も多い。
 トリシアが向かったであろう下町は、治安が悪いので旅行客は近づかないものなのだ。
 環境としては悪くはない。帝都の下町だということから、ある程度は治安が保たれているし、役人も見回っているという。
 けれど、やはり下町は貧乏な平民、もしくは出身者が暮らす場所で、あまり近づこうとする者はいない。
 安い宿をとるために下町に行く旅行客も多いが、ここに不慣れな者ならば賢い選択ではない。
 もうすぐ夜になる。ここは朝方まで開いている店が多いので、人の波はまだ消えないだろう。
 さて――どうしよう。
 所属ギルドに戻ればきっとあれこれ言われるに違いない。
 ふいに声が耳に届いてラグはそちらを見た。この雑踏音の中でよく聞き取れたと感心したが、彼はぎょっとして目を瞠った。
 嫌々ながら酒場に無理やり連れ込まれていたのは、トリシアだったのだ。



「放してください!」
 トリシアは精一杯抵抗した。だが頑強な男たちに腕力で敵うわけもなかった。
(なんでこんな……)
 泣きそうだった。
 ペトラからお使いを頼まれてしまい、中央広場の近くに住む者に届け物をした帰りだったトリシアは、運悪く人にぶつかった。
 とはいえ、トリシアは止まったのだ。ぶつかってきたのは相手のほうだ。
 素早く人込みに逃げ込んだため、トリシアは逃げられると踏んでいた。実際、今までもここでこういうことがなかったわけではない。
 平凡な彼女は絡まれることがエミリに比べれば少ないが、中央広場では様々な人が行き交うため、地元民はこうして絡まれることも多々あるのだ。
 けれど、珍しくトリシアが逃げ遅れた理由があった。
(ミスター?)
 忘れるはずもない、あのトリッパーのハルが、広場の隅でラグと話しているのが目に入ったのだ。
 ラグはここに居ても不思議はない。ここはギルドが密集している場所だし、ここで宿をとるのは自然だからだ。
 だがハルが居ること、そしてラグと話し込んでいることが不思議で、トリシアはやや呆然としてそれを見つめてしまったのだ。
(列車を降りても交流してるなんて、仲がいいのね。いつの間に……)
 あれほど険悪な雰囲気を作り出していたというのに、信じられない。
 そういえば『ブルー・パール号』を降りる直前の日、食堂でルキアは自宅の書かれたメモをトリシアにもくれた。
「ラグやハルにもあげたんですよ」
 と、きらきら全開の笑顔で言ってきたルキアにメモを返すわけにもいかず、トリシアは渋々と受け取ったのだが……。
(なんだか意外だわ。ミスターが打ち解けたなんて)
 ハルは気難しく、怒りっぽい。トリシアは列車の中であまり会うことはなかったから、びっくりして立ち止まったのだ。……それがいけなかった。
 どんっ、と右肩に衝撃が加わり、すぐ横を若い娘がするりと通っていったことには気づいた。
「おい、待てくそアマ」
(え?)
 振り向いたトリシアは、自分に言われているのかと疑問になり、眉をひそめた。
「そうだよ、そこのオマエだ」
(……人違いだわ)
 やられた。
 さっき隣を通って駆け去った娘はこの男に何かしでかしたのだろう。男はやたら怒っていた。
(それに……どう見ても傭兵だわ)
 まずい。絶対にまずい。
 いつの間にか囲まれていた。男の仲間たちだろう。にやにやしながらトリシアは逃げ道を失い、そして腕を引っ張られて歩かされた。
 巡回しているはずの役人も、見当たらない。本気で焦った。
「放して! 別の人よ! 人違いだわ!」
「なに言ってやがる!」
 おまえたちこそ、目がおかしいんじゃないのか! よくよく見れば違うことに気づくはずだ。
 連れ込まれた酒場は、まさにピンからキリまである中の底辺のもので、酒のにおいが店内に充満していた。
 目がすわった酔っ払いたちばかりの中に連れ込まれたが、端でちびちび飲んでいる者もいれば、屈強な戦士もいる。どちらにせよ、上等な酒場ではないことは確かだ。
 逃げ場を探すためにさまようトリシアの視線が、諦めに近いものを帯びた。
 裏口までは遠い。かと言って、正面の出入り口に逃げ出すには、背後の男たちが邪魔だ。
 ほぼ囲まれるような状況に置かれたトリシアは身をすくめる。なぜ自分が、と思うのは簡単だ。そんなことをいくら思ってもしょうがない。とにかく今は、逃げ出すことに集中しなければ。
「おう、さっきはやってくれたな!」
「ですから、人違いです。私は何もしていません」
 きっぱり言うが、逆効果だった。どうやら人違いだと気づいてもらえそうにない。
「しらばっくれてんじゃねえよ!」
 腰に佩いている剣を鞘から抜き、剣先をトリシアの喉元に突きつけた。
(……頭悪そう……)
 気分がささくれ立った。脅せば言うことをきくとでも思っているのだろうか?
 まったく怖がらないトリシアに、男はさらに苛立ったようだ。
 喉元にさらに剣先を近づける。
「謝れって言ってんだ! ほら!」
 促されてもトリシアは身に覚えがないので謝りようがない。素直に従うべきか悩むが、謝ったところでこの男は納得しそうにもなかった。
 後頭部を髪ごと掴まれる。背後の男に乱暴にされて、トリシアはひやっとした。剣先が当たるかと思ったが、目の前の男が素早く剣を引っ込めたので助かった。
「ほら!」
 突き飛ばされるようにトリシアはその場に座らされる。
(なんなの! もう!)
 腹が立ってきた。
 じとっと睨んでいると、目の前の男が不機嫌そうに剣を振り上げた。からかうつもりだったのだろう、笑みが浮いている。
 負けるものかと思って立ち上がるが、つい瞼を閉じてしまった。
 キィン、と甲高い金属音がした。
 瞼を閉じたトリシアの目の前で、だ。
 そっと瞼を押し上げると、そこにはぎらりと光る刃があって、トリシアを映していた。
「ひっ」
 思わず悲鳴をあげて仰け反ろうとする。
 左斜め前に立っている長身の青年が無造作に置いた太刀によって、剣の行く手が阻まれていたのだ。
 見覚えのある格好にトリシアが彼を確かめる。くるぶしまで伸びている外套にすっぽりと身を包んでいるのは、セイオン出身の剣士・ラグだ。
 じ、っと……ラグは相手を見つめていた。ざわり、と彼の中の凶暴なものが蠢くのがトリシアにもわかる。
「おまえ……無抵抗の女相手になにしてる」
 静かに言うラグは重いであろう巨大な太刀を軽々と持ち上げ、相手に向けた。威嚇されたであろう相手は顎を仰け反らせて一歩退がる。
 だがその背後の男が、屈強な戦士の姿をした男が赤い顔で笑って割り込んできた。
「やろうってのか、セイオンの兄ちゃん」
「…………」
 ラグよりも随分と背の高く、肉体の幅も違う。
 力では勝てないとトリシアは彼を見遣った。だがラグの黄緑の瞳は揺らいでいない。それどころか、なんだか……くらい。
 ガン! と鋼のぶつかる音と火花が目の前で散った。
 いつの間にか。
 トリシアに再びまた一撃が加えられていたのだ。
 驚愕するトリシアをラグが右手で後ろへと押し遣る。
 ぶんっ! と彼は下段から太刀を振り上げる。相手の首を問答無用で吹き飛ばす勢いだった。
 それを、男は巨大な斧で受け止める。
 がんがんがんっ!
 続けざまにラグが攻撃を仕掛ける。その素早さにトリシアの目は追いつかない。
 相手のほうはラグの威力の凄まじさに押し負けており、じりじりと後退している。
「こ、このっ……!」
 勢い任せの攻撃をラグが軽く避ける。だが風圧で彼の左腕に巻かれた包帯の一部が切れた。
 あ、とラグが小さく、短く声を発した。その瞳が一瞬で暗く染まり、ラグは鋭く相手を睨みつけた。
 いやらしく口元が歪み、首を傾げる。
「やってくれた、なぁ?」
 ラグの口調にトリシアのほうが戦慄した。ものすごく、たどたどしい帝国語。だが、それは別人が喋ったかのようにしゃがれている。
 ラグは両手で太刀の柄を握り締め、軽く息を吐き出すと笑い声をあげた。
 この笑い声には覚えがある。あの、盗賊によって列車が襲われた際の……!
(ルキア様が止めた……あの時、の)
「……ヒャハハハ!」
 狂人のような笑い声を発しながらラグは愉快そうに太刀を振り上げる。下段から上段に向けてしなやかな動きだったが、それは洗練された戦士の動きではなく、単に重いものをぐん! と力任せに振り上げただけだった。
 受け止めた相手の斧がラグの力任せの一撃に吹っ飛ぶ。斧は威力に負けて天井にまで吹き飛び、突き刺さった。
 ぱらり、と頭上から埃や破片が舞い降りてくる。
 呆然とする全員の中で、ラグの哄笑だけが響いていた。
 笑い続ける彼は、高笑いを終えると今度は喉の奥を鳴らして笑う。
 恐怖に駆られるトリシアは彼がこちらを振り向くのではと、どきどきしていた。こちらを見守っている人々の顔には恐怖しか浮かんでいない。
 トリシアは怯えていた。未知の恐怖に、どうすればいいのかわからなかったのだ。
 低い笑い声と共にラグがこちらを問答無用で振り向いた。
 薄く笑う口元。そして爛々と輝く瞳。別人のようになったラグがそこに居た。
 見下ろされるトリシアはその威圧的な空気に膝が屈しそうになる。
 強く彼の視線を受け止めるトリシアを、ラグは不審そうに見てきた。
 両手をいつの間にか祈るように組んでいるトリシアは、それでも一歩も後ずさらなかったのだ。
 覗き込むラグの瞳が穏やかになる。彼は怪訝そうな表情を浮かべて、それからトリシアを凝視する。
「あ、れ?」
 そんな呟きを洩らして、振り返る。こちらを攻撃していた男は棒立ちになり、その周辺も全員が唖然としていた。
 場を察したラグは顔を強張らせ、トリシアの手を握って素早く動いた。
 彼は風のようにその酒場から飛び出したのだ。

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