ラグは瞼を閉じてはいなかった。とるべき睡眠は最低限はとっているし、警備の仕事は初めてではない。
じっとドアを見る。その向こうを透かし見るように。
盗賊たちは大人しくしているが、時々何かを相談するように話しているのが聞こえた。
怪しい動きをすればいつでも対処できるようにしておくのが、仕事を請けた以上、最低限はすることだろう。
ハルはラグを一度だけ見に来た。
「バカだろ、おまえ」
というのが第一声で、その通りだと思ったのでラグは否定しなかった。
勉学はほとんどしていないので、自分はかなりの馬鹿だ。
「おまえ乗客なんだぞ。それなのに」
言い足りないようでなんだかわなわなしていたが、途中で怒っていなくなってしまった。
(ハルは怒りっぽい)
けれど心配してくれているのはわかったので、ハルは口元に笑みを浮かべた。
いい列車に乗ったと、思う。かなりの乗車賃を払ったが、それでも楽しい。
ルキアは乗務員たちの目を盗んではよくここにやって来て、ラグに休憩をすすめてくれたし、乗務員たちはみんな優しい。
(オレ……)
二等食堂車を破壊したのに。
堪えるような表情になり、ハルは腕に抱える剣を強く握る。
打撲はほとんど治っており、腫れもひいた。だが、壊れた車両は直せない。
(トリシアも優しい)
真面目な彼女はラグがこの列車に乗った時、遠目にしか見えなかったがせっせと掃除をしていたのだ。
みんなに気を配っているし、誰かを見限る、見捨てる時にはどうしようもなく心を痛めるだろう。
(なんていうか、トリシアって、見たことないタイプだ)
それが適切な表現だと思った。彼女はひどく現実的に物事を考えてはいるが、結局はお人好しだろう。
(努力家、なのか)
ああそうだ。それがしっくりくる。
ラグは視線をドアに定めたまま、小さく笑う。
(きっと、それ言ったら嫌がるな、トリシア)
こうと決めたら反射的にすぐ動いてしまうラグと違って、彼女はじっくりとどうするか悩むタイプだ。でも、度胸がないわけじゃない。
ルキアから盗賊事件の話を聞くと、ラグが乱心していた時に彼女はあそこまで自力で来たというから驚きだ。
震えて隠れているのが普通だと思うのに……。
(やっぱりトリシアって、変わってるな)
本人が聞けば憤って睨んでくるだろう。
軽く息を吐いて、背後の壁に背を少しだけ預ける。
ルキアの提案が頭を過ぎった。なぜあの時、自分はすぐさま頷かなかったのだろう。即断が自分の長所だと思っていたのに。
いや、べつの方法をとろうと思っていたのだろうが、それでもルキアの申し出はとても魅力的だった。
(魔封具の強化、か)
しかもあの『紫電のルキア』が直々にやってくれるという。普通に聞いたら「とんでもない!」と辞退をするところだ。
ルキアの噂は聞いていたが、本人を前にしても「噂と違うな」くらいにしかラグは思わなかった。
(強化)
頷くはずだった。一瞬、あの時、固まったのだから。
ゆるく揺れる列車の振動を感じながら、ラグは強化か解除かどちらかしか道はないと思っていた。
だがそれは、一度決断すると、どちらかしか選べない方法だった。
やり直しはきかない。
いつもの自分なら遠慮なくルキアの申し出を受けていたはずだ。やはり……迷っているのだろうか。
迷うなんて、自分らしくない。
(迷う、か)
目が伏せられる。けれど意識はドアから離さない。
人生の中で迷うことなど、ラグにとってはないも同然だった。だがここにきて、彼は動揺したり、迷ったりと、今まで感じたことのないものに捕らわれるようになった。
はっきり言って、いい気分ではない。そもそも考えるのが苦手なのだ。
(帝都まで遠い……)
到着すれば、この悩みから解放されるだろうか?
*
イズル駅には定時通りに到着した。
盗賊たちはルキアの手配で軍に身柄を渡され、晴れてラグは見張り役から解放された。
(良かった。これで少しは休養できるはずよね)
こちらとしても、食事を三度も運ぶことから解放されてありがたい。
盗賊たちを引き渡した後、トリシアはせっせと盗賊たちを勾留していた部屋の掃除をしていた。そこに訪ねてきたのはラグだった。
ぎょっとしてしまう。部屋でゆっくりしているものと考えていたラグは、すでに打撲用の包帯をすべてとっており、あの黒い包帯だけになっていたからだ。
彼は、パッと見た感じは寡黙な印象が強い。無表情でいることも多い。鋭い眼光は、まるで獲物を狙う鷲か鷹のようだ。
今のラグもそうだった。怖いくらいに黙っていて、トリシアのほうをゆっくりと見てくる。
手を止めていることに気づき、ラグは表情を崩した。
「どうした? 手伝ったほうが早く済む。オレも、やるぞ」
「……いえ、これは私の仕事だから」
これだ、これ。
(そうなのよね……。本当はなんていうか……子供っぽいというか)
笑うとがらりと印象が変わる。幼さが全面に押し出され、冷徹な様相が消え去ってしまうのだ。
それに喋らないのは、帝国語がそれほど流麗ではないからだろうことも、今ではわかっている。種明かしをすれば、なんてことはない。理由は単純明快なのだ。
盗賊たちが使っていた部屋はイズル駅まで掃除をされていない。野蛮な盗賊たちは悪態をつきながらこの部屋にいただろうから、部屋が汚れていても驚きはしなかった。
(……けど、まぁ……お客様には見せたくないわよね)
ラグを追い出すべきだと判断してトリシアは箒を握り直す。
異臭がするし、床は吐き出された唾などで汚され、見ていて気持ちのいいものではない。
「ラグ、ここは私に任せて部屋で休んでいて」
「…………」
彼はきょとんとし、それからじっとこちらを見てきた。
(う……。ルキア様とは違う意味で迫力があるわね……)
無表情になると途端に彼は迫力を増す。ルキアの美貌とは違う意味で。
普通の女性ならば睨まれていると勘違いしそうなものだ。ラグは相手をまっすぐに見るので、視線が自然に鋭くなるのだろう。
ふいにラグはにっこりと笑った。
「わかった。じゃあ、またあと、で」
拙い言葉遣いになっているので、なにやら葛藤して出した答えらしい。
ああそういえば。
(ラグの部屋って、反対側の部屋なのよね)
三等客室の数は全部で3。その使われていない一番最後尾の部屋を盗賊たちが使っていた。逆に、先頭車両のほうに近い部屋をラグが使っているのだ。
つまり、一部屋挟んだところにラグの使っている部屋があることになる。
(うるさいから起きてきたのかしら)
掃除の音がうるさなかったのだろうか? それならば、申し訳ない。
「あの」
去ろうとしたラグの背中に声をかけると、彼は振り返ってくる。
ひらり、と包帯が揺れた。
(え?)
ゾクッとしてトリシアは身を軽く引いた。
「あ……」
彼の黒い包帯の先が、シャツの下からはみ出して揺れていたのだ。巻き直して失敗したのだろうが、それでもなんだか嫌な感じがした。
ラグはトリシアの視線に気づいて包帯を見下ろす。
「なんだ。これくらいじゃ、ああはならない」
独り言のように言うラグが包帯をきゅっ、と縛っていると……いきなり真剣な表情で黙り込み、そして顔を伏せ……上げる。
「? ラグ?」
そっと声をかけるけれど、ラグはなんだか様子がおかしい。
彼はじっとこちらを見て姿勢を正した。そしておもむろに薄く笑う。
珍しい表情に驚くトリシアに、ラグはずいっと近づいた。長身から見下ろされると、しかもこんな近距離だと……近距離?
ほとんど身体がくっつきそうな距離にトリシアは戸惑う。
にやにや笑うラグはいつもと違う。
「ラグ」
そう声に出して、身を引くと彼にまた近づかれた。
(え? なんなの?)
瞬きをし、眉をひそめる。距離をとるべきだ。嫌な客を相手にしているみたいで、気分が悪くなる。
ぱち、とラグが瞬きをした瞬間、彼の態度が変わった。
一直線に見つめていたラグは、状況を理解するのにそれほどかからなかったようだ。
不思議そうにこちらをまじまじと見てきたあとに、「なにしてるんだ?」と訊いてきた。
「いや、私のほうが知りたいんだけど……」
「は……?」
彼はすぐさま一歩分距離をとり、小首を傾げる。
「トリシア、掃除はどうした?」
「…………」
「なんだ?」
「いえ、べつに」
憶えていないのか?
いきなり迫られたことを言うべきか迷ったが、言わないことにする。
(そうよね。なんか、自意識過剰みたいで嫌だわ)
「それじゃあ、オレ、行く」
「あ、そうだ。ラグ、きちんと休むのよ。絶対よ」
念押しすると、ラグは「うん」と頷いてドアの向こうへと消えてしまった。
ほっ、としてトリシアは息を吐き出し、掃除を再開した。