「おい、おまえ」
いきなりそう声をかけられて、トリシアは足を止めて振り向く。
茶色の髪と瞳。トリッパーの男だ。
男は面倒そうな顔をしており、仕方なくトリシアに声をかけたのだろう。
「医療用の血液は用意されているのか」
「?」
なんでそんなことを尋ねられるのかわからず、戸惑っていると男が眉間に皺を寄せた。
「答えろ」
「……はい。用意しております。長旅になるので、貧血の方も出たときのために」
「そうか」
ぼそりと呟いて去ろうとした男は、ぎくっとして足を止めた。
引き戸を開いて現れたのはラグとルキアだ。この二人はここ最近、いつも一緒にいる。
ルキアはこちらに気づいて輝かんばかりの笑顔を浮かべた。
「ああ、ハル。それにトリシア」
「出たな、ちびっこ軍人」
舌打ち混じりに洩らす男の言葉にトリシアは驚いた。いつの間にこの人たちは知り合いになったのだろう?
「ハル、おはよう」
「うるさい! 寄ってくるな!」
手を振ってくるラグを邪魔そうに見て怒鳴る男の名は、ハルというらしい。珍しい響きだ。
(トリッパーの名前って独特の響きなのかしら……)
邪険に見ているハルにルキアが近づく。
「あなたの故郷の話を今日こそ聞かせてください、ハル」
「うるせぇ! 僕の故郷はエル・ルディアだって何回言わせりゃいいんだ! このアホ!」
「しかし、帝国人の特徴と合いません。トリッパーではないのですか?」
「やかましい! ひとの事情にくちばし突っ込んでんじゃない!」
「いいえ、絶対にトリッパーです」
確信を持つのはいいが、嫌がっているハルに対してあまりにもしつこい。さすがに不憫になってくるトリシアの肩をつんつんと突いてくる者がいた。ラグだった。
「ルキア、へこたれない」
「……そう」
「トリシア、オレたちのこと嫌いか?」
「えっ」
目を剥くトリシアに、ラグは微笑んでくる。
「オレたち、年齢の近い相手は珍しい。だから、嫌わないで」
「はっ?」
「みんな、オレたちと距離をとる」
それはそうだろう。悪い者たちではないだろうが、どうにも困った人種だ。
「……では、あのお客様にちょっかいを出すのをやめてあげてください。お可哀想です」
「ルキアは興味を持つと、すごく知りたがる。トリシアが怒れば、やめる」
「なっ、なんで私がっ!」
思わず睨むとラグは首を傾げた。
「ルキア、ちゃんと言えばわかる。ルキアもトリシアに嫌われたくない」
なんで???
疑問符が頭の上に舞い踊っているのだが、ラグには答えられないのだろう。……よくわかっていないような顔をしている……。
仕方なく、トリシアはルキアの背中をつついた。
「ルキア様、そのあたりでおやめください。嫌がる方に失礼です」
「ですがハルは嘘を言っています」
嘘を言っているのがそもそも引っかかっているらしい。誰しも隠したい事情があることがあるのだと、ルキアは理解していないようだ。
それもそうだろう。彼の学歴や出生には、曇りなどひとつもない。隠し立てするようなことがないから、後ろ暗い者の考えがわからないのだ。
「なぜ嘘をつくのか、自分にはわかりません。異界から来て、誰かに迫害でもされたのですか?
政府はあなたたちの身柄を保証しているはずです」
「おっ、おまえ……!」
さすがにハルがこめかみに青筋を浮かべたので、トリシアは真っ青になってルキアを揺さぶった。
「ダメですよ、ルキア様! ひとには触れて欲しくないことがあるものなのです! 傷に塩を塗るようなものですよ!」
「えっ」
驚いたように目を見開くルキアは動きを止め、振り仰いでくる。揺れる赤色の瞳はまるで宝石のようだ。
「そう、なのですか? ハルは故郷のことを知られたくないと?」
「? そ、そうじゃないですか、どう考えても」
どうやら今までの言動から、まったくそうは思っていなかった様子。ルキアはハルに視線を戻し、丁寧に頭をさげた。
「申し訳ありません。うるさい、あちらへ行けとばかり言われていたので、話したくないとは思いもよりませんでした。謝罪いたします」
呆気にとられるハルに、ルキアは深々と頭をさげている。
「自分はどうも、言葉を額面通りに受け取ってしまいがちで……。失礼いたしました。
気が済まないようでしたら、殴ってくださってかまいません」
体育会系の解決方法を提示し、ルキアは顔をあげた。どうぞ、と言わんばかりに頬をハルのほうへ向ける。
ハルは困惑し、眉間に深く皺を刻んでいる。トリシアははらはらと見守るしかない。
「……子供を殴れるか!」
怒鳴り、ハルはきびすを返してさっさとその場をあとにした。
残されたトリシアは安堵の息を吐き出す。乱闘騒ぎにならなくてよかった……。
ルキアは姿勢を正し、悲しそうに眉をひそめる。
「……失礼なことをしてしまいました……」
「ルキア、元気だせ」
「ですが……」
ラグの励ましも効果はないようで、彼は落ち込んでいる。
「ラグ! 自分を殴ってください!」
「だめだめだめですーっっ!」
二人の間に割って入り、トリシアは両手を左右に広げた。無茶苦茶するのもやめてほしい!
「なんなんですか、すぐ殴るとか!」
「……いえ、軍律にはありませんが、上官はよく……」
さすが軍人、と感心してしまいそうになる。女の子のような見た目と違って、ルキアはかなり体育会系な育ちのようだ。
だが、ラグのような傭兵が殴ればきっとルキアは吹っ飛ぶだろう。そんなこと、自分の目の前でさせるわけにはいかない!
「そういう乱暴な解決法はいけませんよ、ルキア様!」
「そ、うなのですか?」
首をちょこんと傾げるルキアはラグに目配せする。
ラグは少し目を見開き、うん、と頷く。どうやらトリシアに同意してくれたようだ。
この妙な空気をなんとかするべく、トリシアは話題を振った。
「そういえば、もうすぐエキドの街に到着します。わりと大きめの街なので、停車時間も長いですから、お買い物などしてください」
「トリシアも来ませんか?」
…………は?
ルキアの提案にトリシアが目を点にする。
「いつも車内でお仕事ですから、気分転換しましょう。だめですか?」
「……あの、自由時間は確かに設けられていますが、お客様に同行するなど前代未聞というか……」
焦るトリシアは逃げ道を探すように脳内の引き出しをこれでもか! というほど開いていくが、いい案が浮かばない。
ブルー・パール号に限らず、各列車は大きな街の駅では停車時間を長くしている。さすがに1日も停車はしないが、最長で6時間は停車することもあるのだ。
(そ、それにエミリ先輩と一緒に買い物する約束……)
俯いてしまうと、ルキアが軽く目を見開き、肩を落とした。
「すみません。また立ち入ったことをしてしまったようですね。
では我々だけで行きましょうか、ラグ」
「ああ」
こっくりと頷くラグは歩き出した。ルキアもそれに続く。
横を通り過ぎる時、小さな声で「すみません、トリシア」と囁かれた。
(…………いい子、なんだけどなぁ……)
気分転換にと誘ってくれたのも、本心からなのだろう。彼が乗客で、しかも自分との身分に差もなければもっと気軽に声をかけられるのかもしれないが……無理な話だった。