Barkarole! 序章5

 おかしい。どこで私の人生は間違ってしまったのだろう。
 トリシアはやっと1日の業務を終えて、あてがわれている狭い自室へと戻った。客室に比べると、寝床しかない場所ではあるが、それでもここがトリシアの全財産だった。
 ぐったりとした状態で狭い寝床に潜り、今日あったことのあれこれを思い返す。
 列車は小刻みの揺れを取り戻し、次の駅へと向かっている。大幅に遅れたぶんは、この夜間で取り戻すことになるだろう。
(エル・ルディアまであと半月もある……。長い……)
 いつもならあっという間の旅路も、今はとても長いものに感じる。
 ごろんと寝返りを打って、トリシアは瞼を閉じた。明日も早いのだ。考えるのはやめよう。

 いつの間にか眠っていたのだろう。意識がとても遠い。
 トリシアは瞼を擦り、差し込んでくる太陽光に目を細めた。
(うぅー……体が痛い……)
 ゆっくりと起きて、溜息をつく。
 狭い室内で身支度を整えて、顔を洗うために洗面所のある場所へ向かう。職員共有のそこは幸運なことに空いており、トリシアは顔を洗って歯磨きをした。
 細かく揺れる車内で、トリシアは髪をまとめあげ、お団子状態にする。どこかのメイドのようだという印象を鏡越しに受けた。
 平凡な顔だなと改めて思い、ルキアの壮絶な美貌にうんざりとした。綺麗な顔は見ていても飽きないが、彼の空気を読まない言動は困ったものだったからだ。
(そういえばラグは、ルキア様と一緒に行っちゃったのよね、昨日)
 掃除のあと、声をかけられるかとビクビクしていたが、杞憂に終わったのだ。職場の仲間たちの話によると、一等客室の食堂車で、ルキアとラグが喋っているのを何人かが目撃したようだ。
 二人に共通点など見られないが、どうも話が合うようで仲良くなってしまったようだ。
 1日の仕事を終えるまで、トリシアは彼らに会うことはなかった。
 乗務員の集まる小部屋に行くと、タイミング良く朝会が始まる。
 今日のトリシアは三等客室の食堂車の手伝いに決定された。
 夜番の者たちと交替するために早足で向かうと、三等客室の食堂車に見覚えのある水色の髪の少年がいた。さらさらの長い髪は、見間違うことなどない。
(げっ。なんでルキア様がここに?)
 目を遣ると、向かいの席にラグが腰掛けている。彼はやはり大きな黒い鳥のような出で立ちで、こちらに気づいてはにかんだように笑った。
(げげっ。見つかった)
「おはよう、トリシア」
(げげげー! 声までかけてきたー!)
 逃げられないと覚悟を決めるしかない。近づくと、頭を下げる。
「おはようございます、ラグ殿。ルキア様」
「おはようございます、トリシア」
 にこ、と甘い笑みを浮かべるルキアの様子に、心臓が妙な音をたてた。この子供は、自分の恐ろしい魅力をわかっているのだろうか。
「ルキア、しっかり寝た。今日はここで過ごすって」
 訊いてないのにラグがそう、楽しそうに説明してくる。ルキアは「はい」と笑顔で頷いていた。
「セイオンには行ったことがないので、ラグの話はとても興味深いのです。トリシアはセイオンに行ったことはありますか?」
「いえ、ありません」
「そうですか。海に囲まれた、とても良い土地だそうですよ」
 にこにこと微笑むルキアはラグに「ねえ?」と声をかけた。ラグはしっかりと肯定するために頷く。
「セイオンの島には、たくさんの部族が住んでる。でも、本土で働くほうが、性に合ってる連中も少なくない」
「剣で身を立てるのですね?」
「ちょっと違う。セイオンの者、戦うのが得意。平和すぎるから、島はつまらない」
 ぎょっとなるような言葉だったが、ラグは笑顔だ。
「オレ、たくさんの人を助けたい。と、思った。うん? ちょっと違う。困ってる人、助けたい、思った」
 たどたどしい言葉を紡ぐラグは、それでも一生懸命にルキアに話しかける。
「セイオン、平和で、みんな強い。本土、もっと困ってる人多いって、聞いた」
「立派な心がけですね」
 ルキアに褒められ、ラグは有頂天になったらしくて頬を赤くして恥らった。
(……単純な殿方なのね、ラグって)
 自分の生活で手一杯のトリシアにとっては、他人を無償で助けてやる余裕などない。ラグの行動は理解できるが、同意はできかねるものだった。
 大きな子供のようなラグは、聞き上手なルキアに嬉々として故郷の話をしていた。トリシアはその間に、自分の仕事に取り掛かる。
 彼らはしょせん、通り過ぎるべき存在だ。客とは、来て、去るもの。心を砕く相手ではない。
 食事の支度をしていた料理長の元へ行くと、彼は珍しそうにルキアたちを眺めていた。
「あっちの兄ちゃんは、昨日ファシカを退治した『渡り鳥』の傭兵ってことだったけど、本当か?」
「あれほど大きく紋様をつけているじゃありませんか」
 呆れたように言うトリシアに、彼は「へぇー」と感心したように目を細める。
「『渡り鳥』はかなり腕利きばかりがいるって噂だったけど、本当だったんだなぁ。
 あっちのちっこいのはルキア様なんだろ?」
「……みたいね」
「随分と気に入られたみたいじゃないか、トリシア」
「からかわないで。暇つぶしよ、どうせ」
 面倒そうに答えていると、料理長であるリューダは低く笑った。
「おまえは本当に欲がないよなぁ。こういう時、年頃の娘は相手の男を値踏みするもんだぞ?」
「値踏みって……。相手にもされてないのに、そんなことをする必要はないわ」
 どうせ気まぐれで暇つぶし。トリシアはどこにでもいる平凡な娘だ。彼らのような特殊な人間に、珍しくて気に入られることはあって、それ以上にはなれない。
 ルキアは貴族のうえ軍人だし、ラグは世界を渡り歩く傭兵だ。どちらも、恋人にするには苦労する相手だろう。
 つまらない望みを抱くような夢見がちな娘ではないので、トリシアはあの二人にも客以上の扱いをするつもりはない。親しくすることもない。
「しっかしルキア様は、聞いてなきゃ、女の子に見えるな。あの長い髪とか、手入れされてるみたいだしな」
「そうね。前髪も長いから、とっても不思議な印象よね」
 彼は前髪も後ろ髪も同じように伸ばしているため、本当に妖精か人形のように見える。薄い色彩の髪だから、余計にだ。
 トリシアのような仕事だと、あれほどずるずると伸ばしていると邪魔になるであろう髪も、特別な軍人だから、そうでもないのかもしれない。なにより似合っている。
「横に立つと、おまえが女に見えないもんな」
「失礼な!」
 ムッとして唇を尖らせると、リューガが野太い声で面白そうに笑った。
「でも、すごい魔術師殿なんだろ? どうだ? おまえ、近くで見たんだろ?」
「……そうね。すごかったわ」
「いいな〜。おれも近くで魔術を拝みたかったぜ。魔術師なんて職業のもん、そうそういないだろ」
 そう言われればそうだと気づいた。トリシアはますます萎縮してしまう。ルキアはやはり、気軽に声をかけられる相手ではないのだ。
(あ〜、頭痛い。絶対また声をかけてくるわね、ルキア様……)
 キャビネットの上にお茶を用意しながら、トリシアは嘆息してしまった。
 長い旅路の中で、彼らから逃げるすべなどない。ここは閉ざされた列車の中なのだから。

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