食堂車は無事に線路に戻され、各車両の点検を終えたら出発する手はずになっている。
「おい」
声をかけられ、せっせと荒れた食堂車の中を掃除していたトリシアは動きを止めた。見遣ると、ラグが入り口に立っている。
「オレも手伝う。何か仕事は?」
「お客様はそんなことはなさらなくても構いませんから」
丁寧にそう言うと、ラグは片眉をあげた。
「手伝う」
「…………」
「聞こえてるか?」
「聞こえていますよ」
「手伝う」
「ですから、それはご遠慮を……」
「手伝う」
端的に言うラグは室内に入ってきて、中の惨状を確かめた。乗務員たちはみな、こちらを見て見ぬふりをしている。ひどい。
「おまえ、名前は? さっき、ルキアと一緒にいた」
「トリシアです、お客様」
「オレ、ラグ。ラグと呼べばいい」
それはできない相談だ。
客を呼び捨てになどできるはずがない。
「トリシア、ルキアはどうした?」
「ルキア様は眠っておられます」
「病気か?」
「え? いえ、魔術でお疲れになったのだとうかがってますが」
「まじゅつ?」
首を傾げるラグは、ああ、と納得したような表情になった。言葉は少ないが、彼は顔によく出るタイプらしい。わかりやすい。
「そうか……。無事ならいい」
にっこりと笑うと、ラグは本当に若い。可愛らしい笑みにトリシアが呆然としていると、彼は困ったように眉をひそめた。
「トリシア、大丈夫か?」
「えっ! あ、申し訳ありません!」
「え……。いや、そんなことは、ない」
どもるラグは軽く頬を赤くして、照れたように呟く。その様子に添乗員の女性たちが目がギラつかせていた。
(あ、そ、そうね。ラグも、こうして見ると美形と言えなくもないというか……)
すごい美形のルキアと、やや美形のトリッパーの男を見ていたため、少々目がやられていたらしい。
いかにも平民の傭兵ということは、手の届く範囲の男だ。ルキアほど遠くないので、男に縁のない女性たちはどうしても目ざとくなってしまう。
「トリシア?」
「へっ? あ、はい、なんでございましょう?」
「手伝うと、言った」
「ああ、自分も手伝います」
ラグの背後から現れたルキアに、全員がぎょっとしてしまう。寝ていたんじゃなかったのか?
瞼を擦るルキアは、割れたガラスや、ひどい室内の有り様に悲しそうな顔をした。
「これではここはもう使えませんね。二等客室の方には、一等客室の食堂車を使うように言ってください」
「え……。ル、ルキア様」
「いいんです。今、一等客室には自分しかいませんから、気になりませんし」
そういう問題ではない。
一等客室の客人にこう言われては、乗務員たちは逆らうことなどできないのに。
「ラグも一緒に後でお茶をどうですか?」
「お茶?」
「眠気覚ましにいいお茶があるのです。食堂車くらいでしたら、乗務員の皆さんも彼の立ち入りを許可してくれるでしょう?」
笑顔がまぶしい! と、全員が「うぅ」と唸る。
本当は「ダメです」と言うところだが、ルキアの強引な笑顔に負けてしまった。
「トリシア、自分も手伝います。箒を貸してください」
「な、なりません!」
我に返ったトリシアが、ぐっ、と手に持つ箒に力を入れた。ラグがそこを掴む。
「オレによこせ。オレが使う」
「なりません! 放してください、ラグ殿!」
すごい力だ。トリシアは踏ん張るが、ラグはさして力も入れていないのに、箒が取り上げられそうになっている。
(ひぃぃ! セイオンの男って、こんなに力が強いの? それともラグが特別なの?)
涙ぐむトリシアに、事態は悪くのしかかってくる。ルキアも箒の争奪戦に参加してきたのだ。
「自分がやりますよ。トリシア、手を放してください」
「だ、ダメですって、言ってるじゃありませんか……!」
(ま、負けそう!)
なぜ自分に絡んでくるのだ、二人とも。やめて欲しい。
背後のエミリに助けを求める視線を遣るが、彼女はせっせとガラスを片付けていて、こちらを見ない。
ここまで順調に生きてきたはずだ。このままここで暮らし、そこそこ収入を得ている男性と結婚し、そして老衰……という人生設計が狂ってきている。
平凡な平民の娘をからかっているのか?
「ルキア様、おやめください! ラグ殿も、手、手を放し……!」
「いいえ。そういうわけにはいきません」
「手伝うと、言った」
(なんでよー!)
ぐいぐいと引っ張られる。諦めるという言葉を知らないのだろうか。
「こ、これは私の仕事ですからっ!」
大声で言ったトリシアは、はっ、として棒立ちになっている二人を見遣った。
(しまった……お客様に怒鳴っちゃった……)
青くなるトリシアの箒からラグが手を放す。続いてルキアもそれに倣った。
(あああああああああ! やっちゃったー!)
平穏人生が転落する音が聞こえる……!
がたがたと小刻みに震えるトリシアの頭をぐりぐりと、ラグが撫でた。
「えらい。仕事、頑張れ」
「へ?」
「お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
「ええっ?」
それぞれがあっさりと手を引いて去っていくので、トリシアは呆然としてしまう。
二人がなにか楽しそうに談笑しながら歩く背中を見ていたトリシアの肩が叩かれた。見れば、エミリの手だ。
「……厄介なのに目をつけられたわね、トリシア。旅の間中、たぶんあんたに声かけてくるわよあの二人」
ご愁傷様と言わんばかりの目つきにトリシアは泣きそうになってしまう。
「エミリ先輩〜! どうにかしてくださいー!」
「無理無理。あのセイオンの剣士もルキア様も、見た目はいいけど性格がねぇ……」
「そんなぁ!」
いやだ! すごくいやだ!
ぶんぶんと頭を振るトリシアを、不憫そうに見るエミリの瞳が悲しい。