Barkarole! メモリア10

「結局、ワイザー将軍には転属直前の日まで訓練されましたね」
 頬杖をついているルキアは、その時のことを思い出しているのか薄く微笑していた。
 ベッドの中にいるトリシアとしては薄暗い室内の、頼りない灯りに照らされた彼があまりにも妖艶でちょっと困っている。
「結婚式にはぜひ招待しましょう!」
 彼は思いついたようににっこり笑った。トリシアとしても、おそらくワイザーは幼いルキアのことを気遣っていただろうから、結婚式には呼びたい。
 挙式に関してはまだ躊躇しているが、おそらくすることになるだろう。派手にはしないで欲しいというトリシアの言葉にルキアは承知していたので、地味なものになるとは思うが。
「シェリルさん、という方は呼ばないんですか?」
 名前の響きからして女性だろう。ルキアの前線部隊時代の同僚なので、できるだけ呼びたいなと思っていたが、ルキアは表情を曇らせた。
「ああ、シェリル……」
「?」
「…………」
 無言になるルキアは、前のめりの姿勢を正した。覗き込むような体勢をやめてくれたのはありがたいが、様子がおかしかった。
「シェリルは、軍を辞めたんです」
「えっ……」
 辞めた?
 驚いて目を見開くトリシアから、ルキアは視線を逸らす。その不自然さにトリシアは当惑してしまった。
「理由は、あの、聞いてはいけないことだったら……」
「ああ、違いますよ」
 気づいたようにルキアがすぐにいつもの表情に戻る。砂糖菓子のような笑顔にトリシアはまたも別の意味で混乱しかけた。
「シェリルは、自分から辞めたんです」
「そうなんですか。でも、居場所がわかるならお呼びしてもいいんじゃないかと思うんですけど」
「いえ、来ないと思いますよ」
 はっきりとルキアが否定した。
「シェリルは、自分のことを恨んでいますから」
 衝撃的な言葉に、トリシアは思わず上半身を起き上がらせた。薄い寝巻きの彼女の姿にルキアは動揺すらせず、ただ苦い笑みを浮かべただけだ。
 ルキアはその無自覚さや鈍感なところで恨まれることはあるだろうが、今の話からはルキアに好意的だったと思ったのだが。
 これ以上は言えないのか、ルキアは口を噤んだ。つまり、シェリルは軍側に不都合があって辞めさせられたのだろうか?
「あ、あの」
「はい?」
「ざ、残念ですね」
 事情を知らないのでそうとしか言えなかったが、ルキアは皮肉っぽく笑う。こういう表情は珍しい。
「どうですかね。自分は特になにも思いませんよ?」
「え? で、でも」
 表情の移り変わりから、そうではないのは明白だというのに隠そうとしている。
 ルキアは頬杖をまたついて、小さく疲れたように笑った。
「明日は1日、空いています。なにかしたいことはありますか?」
「したいこと、ですか。いえ、特にないので、ルキア様は休まれてください」
「なんですかそれ。婚約者の願いを叶えるくらいには元気は残って……」
 ルキアはびくっと肩を揺らして突然立ち上がった。そしてドアのほうを振り向く。
「ルキア様?」
「…………」
 場が一気に緊張感を孕む。ルキアはドア越しに見えないものを見ているように、そこをただ凝視している。
 ルキアの瞳が細められる。両手を広げた。最初に出会った時に見たように、まるで音楽の指揮者のような動きだった。
 軽く手を振ったルキアの赤い瞳に魔法陣が浮かび上がる。口の中で何か呟いたルキアが、両腕を振り下ろす。同時に衝撃波のようなものが屋敷の外に向けて放たれるのがわかった。
 カエルをつぶしたような声が小さく耳に届いた。屋敷の敷地内に勝手に誰かが侵入していたのだ。
 慌ててシーツを引き寄せるトリシアを見遣り、ルキアは唇に人差し指を当てた。静かに、という合図だ。
 こくりと頷くトリシアを、「いい子ですね」というように微笑んでみてきた彼は、すぐに窓に近づき、外をうかがう。
 じっと見つめていたと思ったら、戻ってきてずいっとトリシアに近づいた。
「トリシア、いいですか。この部屋から出ないでくださいね」
「は、はいっ」
「不安にならなくても大丈夫です。…………」
「ルキア様?」
 突然無言になったルキアに凝視されているのに気づき、トリシアは不安そうに彼を呼んだ。彼はふいに我に返ったように、小さく舌打ちした。
「このままキスすればよかったですね」
「え、ええっ!?」
 舌打ちをするルキアも初めて見たが、悔しさの理由がそれとは!
 彼はくすりと笑い、身をひるがえす。そしてそのままドアを開けて出ていってしまった。

 薄暗い廊下をルキアは歩く。せっかくのトリシアとの時間を邪魔されて、彼は最高に不機嫌になっていた。
 懐かしい話に少し、夢中になっていたのかもしれない。一年以上も前のこととはいえ、思い出というものはやはり美化され、誇張されるものだ。
 なるべく正確に話したつもりだったが、トリシアはルキアとシェリルが仲がいいと勘違いしてしまったようだし。
 ……仲が良かったように、他の者からは見えたのかもしれないな。そうルキアは認識を改める。
 確かにシェリルは怪我をするルキアを気遣ってくれていた。だが……そんなことで「仲がいい」と思われるのがあまりよくわからない。
 シェリルは軍務だからこそルキアの手当てをしていたのだし、それ以上のことなど何も……。
「…………」
 思わず、ルキアは足を止める。
 もしもトリシアが「あのこと」を知ってしまったら、どう思うだろう? 軽蔑されるだろうか?
 誰かから嫌悪感を向けられることには慣れているはずの自分ですら、さすがに冷汗が出た。愛する者に嫌われることの恐怖が、初めてルキアを苦しめている。
 息苦しさと悪寒から逃れるように、ルキアは歩みを再開させる。今は、とにかく侵入してきた「敵」を追い払うことを考えなければ。



 月明かりの中、庭を横切ってルキアは空を見上げる。先ほどは、「弾く」衝撃波を放っただけだ。
(……油断、しすぎですね)
 反省しながらぐるりと視線を動かす。
 正面、それから屋敷の南西方向にそれぞれ気配を感じたのだが……。
(ん……? 囲まれている?)
 どうやら先ほど攻撃したのは様子見で偵察に来た者だったようだ。二箇所を攻撃できるようにと波紋のように衝撃波を繰り出したので、しばらくは動けないと思っていたのだが。
 他に、いたのか?
(逃がした? 自分が?)
 いくら油断していたとはいえ……。
 信じられなくてつい、自嘲してしまう。
(本当に、トリシアと出逢って、彼女に想いを寄せてから予想外のことばかりですよ)
 くくく、と低く笑ってから、ルキアは残虐な色を瞳に浮かべた。
「ああでも、トリシアを狙ってるんですよね?」
 誰にともなく呟く。それはまるで、確認のように。
 ゆったりと歩きながら、ルキアは軽く首を傾げた。正面から誰かが歩いてくるのが見えた。
 月光に照らされた姿は忘れるはずもなかったものだ。
 ルキアの紅玉のような瞳が見開かれる。
「なぜ、ここに」



 やはり心配だ。小さな携帯ランプを持って、トリシアはベッドから出た。冷やりとした空気に体が小さく震える。
(どうしよう。部屋を出ないって約束したのに)
 約束を破っていいはずがない。彼はきっと、様々なことを考慮してトリシアにそう言ったのだ。
 でも。
 出会ってすぐの、遺跡調査の際にルキアがとった行動を思い出すと、どっと冷や汗が出た。彼は、彼自身の命を、軽く考えすぎている。
 あんなに簡単に命を危険に晒すことを、容易くできる人をトリシアは知らない。彼は、そういう点でも異常といえた。
 怖い。
 また、あんなことになったら。
 ぎゅっと拳を作り、トリシアは歩き出す。
 廊下を歩いて階下に降りて、エントランスを通って玄関扉に手をかけた。……と。
 玄関に近い窓から外がうかがえた。ルキアの小さな背中が見えて、安堵したが。
 その向かいに誰かが立っているのが見えた。誰だろう? ここからではうまく見えない。
 すらりとした体躯と、長い髪を後頭部の高い位置で括っている……人物。
 細身からして女のようにも見えるが、肉付きの悪い男のようにも見える。首を傾げていたトリシアは、ルキアが身構えるのを初めて見た。
 異常事態にトリシアは真っ青になる。あのルキアが、飄々としている彼が明らかに敵対心を相手に向けていた。
 なにか言ったようだが、屋敷の中にまで声は届かない。
 しばらくルキアは相手に対して殺気を放っていたが、突然それを消して肩をすくめた。
 敵対者はルキアに近づくと、大きく覗き込んだ。まるでキスをするような姿勢になったので、トリシアの顔色は青から白に変わる。
 夕方に来襲した令嬢はあまりにも美しく、ルキアと並んでも遜色がないように……いや、ルキアのほうが美人なのだが、そこそこ見れる二人になっていたので悔しくなったが。
 イラッ、とした。
 悔しさなど感じず、ただ単純に苛立った。
 いくら受動的ではあると言っても、婚約者を置いている屋敷の、しかも庭で!
 むかむかとしてきて、トリシアはその光景から目を逸らした。
 逸らしてから、もう一度見遣る。嘘だと思いたかったのだろう。
 しかし光景は変わらない。覗き込む人物と、微動だにしないルキア。ルキアはむしろ平然としていて、慣れているとさえ感じた。
 この国では13歳になった時点で大人とみなされる。飲酒はさすがに20歳までは無理だが、娼婦などを買うことはできる。
 ルキアが異性に特別な感情をあまり抱いた様子はなかったので気にしていなかったが、それは……それは彼がすでに女遊びを覚えていたからだったとしたら。
 不安と焦燥で胸が締め付けられそうになる。
 自分は劣等感の塊なのだ。美しさもないし、教養もない。貧乏な教会育ちで、孤児。いいところなど、ひとつもない。
(やっぱり私には無理だわ)
 ルキアの隣に立つことが恐ろしい。
 かぶりを振ってから、ふとルキアがまったく動いていないことに不審に思った。
(?)
 窓から様子をうかがっていると、傍に居た人物が姿勢を正したところだった。月光に一度だけ見えたその顔に、トリシアは仰天する。
 ナタリーなど比較にならない美女だ。
 劣等感がじわっと胸中に広がって、思わず息苦しくなる。
 目を逸らしたい衝動を、トリシアは抑え切れなかった。
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