夜明け前に集落を出て、ファシカが通ってくるという道を歩いていた。確かに点々と死体が転がっている。
預かった油で一つずつ燃やしていくが、これがなかなか苦労する作業だった。どうしても燃やせば異臭がするからだ。
その異臭でべつの獣がやってくる。目玉がおそろしく飛び出ている小型犬のような気色の悪い獣たちは追い払うのに苦労した。
道を進んでいくと、やっと死体がないところまできた。
さて、ここからが正念場だ。
ファシカの活動時間はおもに昼前から夕暮れまでだという。
この近くにファシカの集まっている場所があるのだろう。
(初めての依頼で死んじゃうってのも、仕方ないか……)
逃げ足に自信はあるが、あまり体力があるほうではない。亜子は深呼吸をして、何度も何度も自分を落ち着かせようと必死になった。
心臓がどくんどくんと早鐘をうつ。
あれ? なんだろう、これ。
では試験開始。そんな静かな声とともに、響く鉛筆の音。必死に目の前の白い紙に向き合う自分。
まぼろし?
ぱちぱちと瞬きをすると、その幻は消えてしまう。
なんだか、その感覚に今の状況が似ていると思ってしまうのは、自分がおかしいからだろうか?
(そうだね。試験だって、立ち向かうのは一人だけだ)
そして結末も、無残で無慈悲な時もあれば、ありったけの幸運を与えてくれる時もある。
亜子は太陽がのぼるのを感じた。空が白んでくる。
さようなら。
心の中で告げる。
暗い布団の中で呪文のように謝っていた自分の夢に、お別れだ。
緊張はしている。
どきどきしている。
死ぬかもしれない。
後悔するほどに。
でも。
「…………」
亜子は朝陽がのぼるのを合図とするように歩き出した。
さあ、来い。
立ち向かってやる。
立ち向かってやる!
逃げはしない。
怖いだろう。
恐ろしいだろう。
だが今の自分には何もないのだ。失うのは自分の魂と体のみ。だったら。
(やってやろう!)
だめだったら別の道でもいい。そう笑ってくれたマーテットのため。
立て! と叱咤してくれたシャルルのため。
決断に恥じるなと言ってくれたヨミのため。
そして。
(決断したあたし自身のため!)
ドドド、と地響きがする。遠目にもサイによく似た巨体の獣が群れでこちらに向かって走ってくるのが見えた。砂埃をあげて疾駆する光景はさすがに血の気が引いた。
だが、後退はしない。
逃げない。
亜子は大きく息を吸い込み、ぎろっとかれらを睨んだ。そして充分にひきつけたと判断した途端に俊敏に走り出した。
群れが一斉にこちらに向かってくる。かなりの速度で追いかけられ、無謀だったかとやはり思う。
追いかけっこは体力の尽きたほうの負けだ。
そしてここは荒野。障害物が少ない。
適度な距離を保って走り続けるのも限度がある。でも。
なんだろうこの清々しい気持ちは!
「おい!」
怒鳴り声に亜子は驚く。
疲れて幻聴でも聞こえたと思うが、幻聴ではなかった。
馬のようなものに乗っているヨミが、亜子と並走していた。手を伸ばしてくる。
「乗れ」
「ヨミ」
「ぼんやりするな!」
手を掴まれて、引っ張りあげられる。抱えられるような形で乗せられ、馬は速度をあげた。彼は撒き餌をしながら走る。
「ヨミ」
「少し離れた集落で買ってきた家畜だ」
今まいているのも、乗っているのもヨミが手に入れたもののようだ。
呆然としている亜子に、ヨミは目を細めて嫌そうにした。
「勝手にくたばるのを、私は了承していない」
「でも、助けないって」
「助けていない。おまえが邪魔だから引っ張りあげただけだ」
「…………」
ヨミの言い分に、亜子は思わず吹き出してしまう。
「な、なんだ」
「ううん。ありがとうヨミ」
「礼はいらぬと何度も……」
苛立ちを隠そうともしないヨミに、亜子はそれでも言う。
「ありがとう! あ!」
「な、なんだっ?」
突然亜子が大声を出したものだから、ヨミも驚いたのだろう。
亜子は青空を見上げた。雲ひとつない、快晴だ。気づかなかった。
駆ける馬に乗るのは初めてなので、どうしてもお尻が痛いが、それでもその透き通るような青さに目を奪われた。
「わあ……!」
亜子は両手を広げ、天へと両手を伸ばす。
手綱を持つヨミにはさぞかし邪魔になっただろう。だが彼は止めなかった。
「綺麗だ……」
涙が零れていた。
亜子の世界も、同じように青い空が広がる日もあった。いつからだっただろう? 上を向かずに下ばかり向いた日々を過ごしていたのは。
「ねえヨミ!」
大声で亜子は言った。
「ここがあなたたちの世界なんだね……! 新しい世界なんだ!」
END