Barkarole!U シャングリラ19

 亜子は夢の中にいた。
 なつかしい狭い自室の机の上に広げられた教科書やノートの数々。膨大なそれらを、卓上の明かりのもとで必死にやる。必死に、やる。
 やらなければいけなかった。そうでなければ、失望されないようにしなければ、自分の居場所がなくなってしまう。亜子はいつも恐怖にかられていた。
 一体いつ頃なのか、亜子は母親の顔色をうかがうようにばかりなっていた。昔はそうではなかったはずだ。友達も大勢いたように思う。
 だがそれも、中学にあがる前までだった。折檻されたことも、言葉で責められたこともないが、母親が自分になにかを強く求めているのは感じ取っていた。
 友達と遊べば溜息をつかれ、戻ってきたテストの点数で落胆される。なにも言われないぶん、態度で示されていて亜子は肩身が狭かった。
 次第に誰とも接触しなくなり、学校へはただ授業を聞きに行くだけになった。
 そうしなくなってからしばらくして、母親が今度はうるさく口出ししてくるようになった。なにをしても注意され、言葉を口にすれば「言い訳だ」と言われ、亜子は徐々に疲弊していった。やがて母ともろくに会話することが億劫になってきた。
 父親が母親に酔った勢いで手を挙げているのには気づいていたが、どうすることもできずにいたことも、拍車をかけた。
 亜子は完全に母親のストレス発散のはけ口にされ、過大な期待を背負わされていた。母の目標は高いところに常にあった。
「亜子はやればできるのよね」
 それが口癖となったのはいつだろうか?
 亜子は母をどう思っていたのか、思い出せない。だが、嫌いではなかった。
 夜食を持って、二階へとあがってくる足音がする。亜子はその音を緊張感とともにほぼ毎晩聞いていた。
「頑張ってるじゃない」
 嬉しそうにする母親に、沈黙を返すだけで亜子は精一杯だった。
 沈黙していれば、勝手に相手が解釈してくれる。不機嫌な時は「また、だんまりなの」と言われ、上機嫌な時は「集中してるのよね」と言う。
 まともに会話することを放棄したことに母は気づいていないようだった。なぜ亜子が言葉を返さないのかも。
 亜子は様々なことに疲れていた。立ち上がろうとすれば毎回母親が蹴倒すような印象があった。
 けれども亜子本人は疲れていることを「認識できなかった」のだ。沈黙している亜子の目の前に、カロリーの低そうなものが並べられる。
 ここまで尽くしてくれる母に、なぜ言葉をかけないのだろうかと思い悩んでいた。けれども悩むだけで口にはしないのだから、母にそれがわかるわけがない。
 口を開くが、そこで硬直してしまう。なにか言えば……文句が返ってくる?
 母は上機嫌だったらしく、すぐさま部屋を出て行く。「邪魔をしないようにしないとね」と独り言を口にしながら。
 閉まったドアから目を離し、亜子は机の端の料理を目にする。湯気をたてているそれらは美味しそうではあったが、おそらく食べてもなにも感じはしないだろう。
 早く食べて食器を持って降りなければ。以前、朝方に持って降りたら散々、「早く食べたなら出しなさい」「汚れが落ちないでしょ」と何度も言われたためだ。
 反抗する気力すら奪う母とのやり取りに、亜子は徐々に内向的な性格になっていった。自身の変化に本人が気づかないばかりで。
 勝手に期待をしないで。勝手に決め付けないで。
 不器用な己に劣等感を抱かない者はいない。上手くできないことを恥じる者だって多い。
 夜食を食べ終えて、亜子は腰をあげる。盆に食器を乗せて、ドアを開いた。暗闇の中、階下へと通じる階段を見れば、いっそ転げ落ちたくなった。しかしそれは痛いだけで、結局なにも変わらないことなのだ。
 諦めてしまう。
 亜子は階段を降り始めた。こつん、と音がして、振り返ったそこに誰かが立っているのが見える。
(え?)
 靴? 土足?
 視線をあげる。身を捻った。
 立っていたのは、シャルルだった。傷だらけの彼に、亜子は青くなった。
「殿下……」
 ああ、生きていたのか。それだけで、亜子は救われたような気持ちになる。
 しかしシャルルが口にした言葉は予想とは違っていた。
「無駄だから、母親と向き合わないのか」
「……そうですね。まともに会話できないと思うので」
 こちらが疲れるばかりだ。母が何を考えているのかも、わからない。理解したくなかった。相手が理解しようとしないのに、こちらばかりが努力をするのは……ずるい。
 素直に認めた亜子は、パジャマ姿のままで小さく笑う。半笑いだった。
「価値観が違うので、おそらく。口論になっても、相手は納得しないでしょう。こちらが疲れるだけです」
「孤独なのか」
「はい。この場所に居るのがさびしいです。あたたかい食事と寝床を与えられているのに、変ですよね?」
 居場所がないみたいに感じる。
「決め付けてかかるのだな」
「……いけませんか」
 亜子は憎悪を瞳に宿らせた。
「結局あたしは、こちらの世界で何も成せなかった。母の期待を裏切り、心底絶望して眠ったのです」
「今はどうだ」
「……したいことがあります」
「したいこと?」
「あたしは人を殺しました。いけないことです。それでも、あたしは後悔していません。他人の命を軽くみているつもりもありません」
「……そうか」
 シャルルは無表情に応じている。きっと、本人ではないのだ。
 では本人はどうしている? 無事とは思えないが、生死を確かめたい。……死んでいるなんて、決して考えたくはないけど、現実は辛くてどうしようもないことも平気でやってくる。
「どんな結果になったって、やらなきゃいけない時はあります。だったら、あたしはまた……『努力』したい」
「散々勉強しても、おまえは大学に落ちたのにか? 努力をすることが辛いことだとわかっているのにか?」
「あれは、自分の決めたことじゃなかった」
 そうだ。
 亜子は少しだけ顔を俯かせたが、すぐに上げる。
「今度は自分で決めました。また結果が出せずに悔しい思いもするかもしれません。でも、受験の時とは気分が違うと思うんです」
 それは亜子の、勝手な想像。
 シャルルは数秒沈黙したが、口を開いた。
「再び余の命が危険にさらされた時、おまえは力を正しく行使できるとでも?」
「あたしは完璧じゃない。間違いだってする。そのことに…………ひとを殺してから気づいたんですよ、殿下」
 悲しみに顔を歪めてしまう。頭でわかっていても、理解はしていなかった。
 転ぶことを恐れて、亜子はただ歩くのをやめてしまっただけなのだ。 
「あたしはまた転ぶでしょう。でも、納得して転べば気分は違うでしょうね」
「納得ばかりできる人間がいるとは思えないが」
「そうですね。そんな単純にできていませんから。でも、今はすっきりしています。目標ができただけで、すごく違っているから」
「目標?」
「それは――」
 口にしてから、亜子は笑う。
「随分と高望みをしていると、自分でも思います」
 辺りは静かだった。階下に本当に母と父は居るのだろうか?
 いいや居ない。ここは夢の中だ。
 自分はひとを殺めた。今でも、それは許されることではないと思っている。……結局は、それも自分の思い込みかもしれないが。
 見下ろしてくるシャルルの表情は動かない。やはり殿下ではない。彼はもっとよく笑うし、表情を動かす。
 目覚めれば、この夢の中での出来事は忘れてしまうだろう。そもそも、亜子は家族の記憶が随分と曖昧になっている。この夢の中ですら、母の顔は「なかった」。
 もはや失くしたものを反映できないのだろう、たとえ夢の中でも。
 そして……思い出したくない記憶だ、コレは。だからもう、いらない。必要ないのだ。
「新しい世界は、決して楽園のように美しくはないけど……」
 まぶしそうに、亜子は目を細める。
「それでも、殿下のいる場所を『居場所』にできるように、あたしは努力したい」
 ――永い夢から醒めるのは、もう少し先だ。

 地下牢の石畳の床に敷かれただけのシーツの上で、眠り続ける亜子はなにか囁いた。牢番が不審そうにしたが、声が聞き取れたわけではない。
 牢番は首をひねっていたが、階段を降りてきた人物に気づいて慌てて敬礼する。
「娘はまだ目を覚まさないのか」
「はっ! 左様です、大佐」
 ギュスターヴは格子に近づき、中をうかがう。確かに、亜子は目覚めた形跡がない。
 あの傷だらけだった少女が、無傷で昏々と眠っている姿は異様だった。
 肉体の異常回復はマーテットからの報告にあったので、驚きはしない。
 しかしその回復能力は、彼女が異能を発揮している最中、もしくは発揮しようとした時に発動するようで、現在はおさまっている。
 実際、亜子は敵を殺した後で意識を失い、肉体が回復するまでは赤い髪だった。しかし今はもう、赤茶に近い髪に戻っている。閉じられた瞼の向こうの眼球も、金色から元の色に戻っているだろう。
 トリッパーは希少種。目にすることも稀だ。それが目の前に無防備に眠っている。
 ギュスターヴは囁く。
「早く目を覚ませ。殿下がお待ちだ」

***

「アガット=コナー!」
「はいっ!」
 名前を呼ばれて、亜子は前へ出る。黒の制服を着込み、堂々と胸を張っている。
 姿勢を正して前へと進み出る。
 進んだ先には輝かしい皇子が居る。美しい金色の髪は太陽の光を反射していた。
 彼の前まで行くことは許されない。
 亜子は、階段のはるか下で片膝を立てて敬礼をとった。頭をさげ、右拳を胸に当てる。
「汝を本日から、帝国皇帝陛下の第二皇子、シャルル・アウィス=ロードキングづきの特殊護衛兵に任命する」
「はっ!」
 鋭く返事をする亜子は「頭をあげよ」という声と共に、それに従う。
「立て」
 豪奢な衣服の老人の号令に亜子は立ち上がった。皇子は決してこちらを向かない。そして声も発しない。
 だがそれでいいのだ。
 両手を身体の側面に下ろし、亜子は緩く呼吸をする。すると、シャルルがちらりとこちらを向いて――――笑ったのだ。
「任期は無期限。その命が尽きるまで、皇帝と帝国、そしてシャルル殿下に捧げよ!」
「はっ!」
 敬礼をする亜子は、見間違いかと思ったがそれどころではなかった。
 ここからの道のりは果てしなく厳しいだろう。だが前へ進むことができた。道は、拓かれたのだ。
 頭をさげて、きびすを返す。
 参列している兵士たちの中には見知った顔もある。けれど亜子は前を向いて歩いた。
 これからの自分は長野亜子ではない。アガット=コナー。シャルル皇子の特殊護衛兵になるのだから。

 任命式の後、かつんかつんとひと気のない廊下を歩いていたら、声をかけられた。
「アガット」
「フレデリック様」
 柱に背を預けるように立っていた第一皇子フレデリックは、杖をつきながらひょこひょこと歩いて近づいてくる。
 敵対心はないようだ。いや、彼は他者を侮蔑することは多くあっても敵視することはほとんどない。
 気だるそうな視線は変わらず、彼はアガットを眺めた。
「世界で初の、トリッパーの軍人の出来上がりだな」
 くくっ、と低く笑うフレデリックにアガットは無表情に返した。
「そうですね。職業登録は、帝国軍人としましたから」
 シャルルの護衛兵になるために、アガットはそれこそ血のにじむような訓練を短期間で受けてきたのだ。
 それもこれも、職業登録に軍人を希望したからだ。
 認可されたのは、おそらくシャルル本人の口添えがあったからだろう。あの人はいつだって、アガットの背中を押してくれる。
「……ふん。つまらん顔をするようになった」
「ご期待に副えず、申し訳ありません」
 最敬礼をすると、フレデリックの嘲笑う声が頭上から降ってきた。
「おまえはシャルルが好きなのだろう? 階級もない平民風情が、恋心を抱くとは浅ましい」
「……あたしは」
 短くアガットは頭をあげてから言う。
「あの方の最期まで尽くすつもりです、フレデリック様」
 叶わぬ恋だからこそ、いいや、たとえ叶ったとしても……一緒に目指す場所に向けて走っていけばいい。
「…………」
「あなたにも邪魔はさせません。たとえ」
 ゆらり、とアガットの瞳が金色に変わる。闇の中ならば燃え上がるような、金色の瞳に。
「どのような障害があろうとも」
「…………フン。やってみるがいい。見ていてやろう」
 杖をついて去っていくフレデリックの後ろ姿をずっと見送る。彼も孤独なのだ。たった一人で戦っている。
(あの人にもいつか味方が現れればいい……)
 アガットは歩き出した。これからシャルル皇子へと挨拶に向かわなければならない。
 未来は動き出した。アガットはもう、振り向かない――――。


END

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