本命を、落とした。
その衝撃を受けて、持っていた受験票が風に乗って飛ばされていく。手の力が緩んでしまったからだ。
亜子は呆然と、現実を完全には受け入れることができずにいた。
そんな夢を見たせいだろうか?
亜子の顔色は朝起きると悪く、曇っていた。
「やな夢」
瞼が重い。
そう思いながら起き上がると、なんだかふわふわしている。
あまりの気持ちよさに亜子は口元が緩んだ。ふにゃん、と笑ってしまう。
「貴様、余の寝台で何をしている?」
若い男の声が聞こえる。亜子はハッとして閉じかけた瞼を開けた。
目の前に、頬杖をついてこちらを覗きこんでいる絶世の美少年がいた。
輝くような金髪に、透き通った空のような青と、宝石のような緑のオッドアイ。
おかっぱ頭と表現してもいいが、それではあまりに彼に失礼のような気がする。それほどに彼は美形だった。
薄手の白いシャツが見える。まるで……えっと、そう、そうだ。マハラジャ?
混乱はしたが、亜子はそのまま起き上がり、辺りを見回した。状況は最悪だ。
見知らぬ場所に自分はいる。しかもなにこの微かな振動は……?
ふわふわの大きな天蓋つきのベッドの上に自分は寝転がっていたらしい。ありえない。自分の部屋はもっと狭いし、ベッドなんてかたい。
「……ん? おお、なるほど。貴様、トリッパーだな?」
「え?」
また声がしたので亜子はそちらを見遣った。
美しい少年……おそらく亜子とそう年齢が変わらないであろう彼がむくりと上半身を起こして亜子に顔を近づけたのだ。
正直、亜子は『ビビった』。
こんな美少年は映画でもお目にかかったことがない。明らかに西洋人だし、外国人だし、日本人じゃないし。
綺麗に整った色白の顔に、少し意地悪そうな笑みが浮かんでいる。オモチャを見つけた子供のような眼差しだ。
「と、とりっぱー?」
英語? なにかにトリップする……意味は……なんだっけ?
「見た目は少しやや赤みのかかった茶髪だが、瞳が茶色だ。トリッパーに違いあるまい。
しかし余の寝所に出現するとは、大胆なトリッパーもいたものだな」
珍しいと言わんばかりの口調に亜子は困り果ててしまう。
「あの……ここはどこですか? あたし、家に帰らなくちゃ。ていうか、ここって夢?」
「夢ではないな」
少年はふわりと亜子の頬を撫でる。
「うむ。まこと、こちらの人間と変わらぬな。どれ」
着ていたパジャマの上着をぺろんと捲りあげられ、亜子は思わず「ひえっ!」と悲鳴をあげてのけぞった。
見知らぬ美形の少年にいきなりセクハラをされる覚えはない。
「ちょ、ちょちょちょっと!」
物凄く言葉が出ない。人間、驚くと本当に言葉が出てこない。
亜子が警戒して彼の手を払おうとする前に、少年の手が離れた。
頬杖をつき、亜子を上目遣いに見てくる。恐ろしい美貌だ。テレビのアイドルやタレントなんて、目じゃない。
ハリウッド俳優だって、きっと裸足で逃げ出しちゃう!
そんな風にぐるぐると考えていると、少年が薄く笑った。
「中央都庁で登録をさせねばならんが……余にそれをさせるというのか? こんなところに出現しおって」
まるで小動物に対するような声音だが、なんだか不穏なそれを感じた。
「トリッパー、名を名乗るがよい。余が許す」
「え? と、とりっぱー?」
ストリッパーの親戚じゃないとは思うが……やはりわからない。どうしてだろう。受験勉強をあれほどしたというのに。
「名を申せ」
す、と彼は人差し指を差し出し、亜子の目元を拭った。涙だ。いつの間にか涙が流れていたのだ。
名前?
亜子はゆっくりと唇を開く。
「……長野亜子」
*
亜子は室内に入って来たメイドたちに驚き、身を固まらせる。どうなっているのかさっぱりわからないが、メイドたちは不審者がいる、と認識したようだ。
その場をおさめたのは……彼だった。
「よいよい。トリッパーが余の部屋に現れるなど、物珍しくて良い」
などと言いながら、ベッドから降りる。残された亜子はどうすればいいのかわからない。
メイドの一人が……おそらく年長者で、この場でのまとめ役であろう女性が進み出た。
「恐れながら、トリッパーとはいえ、殿下のお部屋に長居をさせることはできません」
「わかっておる」
うるさいとばかりに顔をしかめる少年は、すらりとした体躯をしており……。
……というか。なんだか聞き捨てならない単語が聞こえた気がする。
(殿下?)
デンカ、という響きで浮かぶ単語は『殿下』しかない。発音からしても、きっとそうだ。
それにこのいかにも豪奢な部屋。ベッド。家具。
……もしや……自分は夢の中で、とんでもなく偉い身分の人の家に、しかもベッドに潜り込んでいたのではないだろうか?
いかにも西洋人たちに囲まれている自分は、とんでもなく場違いで、亜子は萎縮してしまう。なんでこんな夢をみているのだろう?
「貴重なトリッパーだ。丁重に扱え」
「はっ、かしこまりました」
「後で話がある。支度が終わったらこいつを同行させる」
「はい」
きびきびと動くメイドたちは、彼を着替えさせるために集まっていく。そして逆に亜子は部屋から追い出された。
追い出された先も小部屋で、不審になりながら連れてきたメイドの一人を見遣った。
「……あの」
小さく声を出した亜子を見遣り、メイドはどこか蔑視を含んだそれのまま、口を開いた。
「殿下のご用意が整うまで、ここでお待ちください」
「…………」
よくわからないが、ここで待てということだろう。
亜子はパジャマ姿のまま、先程会った彼のことを思い出して頬を赤く染めた。綺麗な男性だった。
(なんかよくわかんないけど、いい夢だなぁ)
いやな夢のあとに、いい夢なんて。
思い出して、亜子はずん、と肩が重くなるのを感じる。
……受験に失敗した夢。……本当に夢?
雪道を通って、合格発表を見に行ったあの時の寒さや、風の冷たさが?
(…………)
青ざめる亜子の様子に、メイドが不思議そうにするが声をかけてくる気配はない。
両開きのドアが開き、メイドたちが出て行く。唖然とそれを見送っていると、年長者のメイドが亜子を睨んできた。
「殿下がお待ちです。……早く行きなさい」
「えっ!? あ、はい」
なぜか頷き、亜子は慌ててドアから先程の部屋に入った。
長椅子に優雅に腰掛けている深紅の衣服のきらびやかな……少年。……ま、まぶしい。
(さ、さらさらの金髪に、綺麗な青緑色の瞳……。なんだか不思議な色の目だなぁ)
魅入っていると、少年がくすりと笑う。
「よいよい。余の顔に見惚れるのは当然だからな」
偉そうな物言いに亜子がぽかんとし、それから自分の姿を見下ろして恥じ入る。どうしよう。パジャマのままだった。
(着替えとか……ないのかな。夢の中なのに、衣装がチェンジするとかないわけ?)
困った……。
もじもじしていると、少年は亜子を手招きした。
「今頃、余の部屋に出現した稀なトリッパーのことをレラが報告しに言っておるはずだ。おまえと話せるのも少しだろうな」
そう言いながらの行動に、亜子は従って近づいてしまう。なんというか、カリスマの塊のような少年だ。
長い脚を組み、優雅に頬杖をついている彼は亜子をじろじろと見遣り、それからフッと笑った。
「何も知らぬトリッパーか……。
そうだ。おまえに名をつけてやろう。どうせくだらん名前をつけられるであろうからな」
尊大に言い放ち、彼は状況が理解できていない亜子の名前を何度か反芻し、にっこりと笑った。その笑顔に、不覚にもときめいてしまう。
「アガット。アガット=コナー。どうだ?」
どうだ、と言われても……。
(いきなり変な名前つけられても……困るんだけど)
反応しない亜子を眺め、少年は少し拗ねたような仕草をする。
「気に入らぬか。しかし、おまえの名前をもじったのだぞ? 捻りもない名前をつけられるよりマシと思わぬか?」
「あの……私、そんな名前をつけられても……」
小さくそう言うと、彼は本気で驚いたようだ。
「声が小さいな。なにをそんなに萎縮しておる? 余の前だからとて、遠慮はいらん。今は許す」
「…………あなたは誰、ですか?」
丁寧に問いかけると、少年は今さら気づいたのか意地悪く笑う。
「……なるほど。何者かわからぬゆえの恐怖か。
余はシャルル・アウィス=ロードキング。皇帝の第二子だ」
こうてい?
(よくわからないけど、コウテイって人の二番目の子供……次男てこと?)
名前はシャル……。
(シャルル・アウィス=ロードキング? すごい名前。苗字が特に)
堂々と王様だと言っているようなものだが……。
亜子は怪訝そうに彼を眺めていたが、楽しそうにしている少年の態度に徐々に不安になってくる。
(……いつ、目を覚ますのかな……)
夢とは、もっとふわふわとして、でも現実感がある時もあって、確かに見たこともないことすら、想像できる。
けれど……なんだか違う。
足がしっかりと地についているし、ここが『夢』だという確証がない。もっとも、その逆もだが。
「しゃ、シャルル、さん、です?」
「ふふっ。シャルルさん、か。そう呼ばれたのは初めてだなぁ」
わざと棘のある言い方をしているのは、なぜなのだろう? 不機嫌そうにはみえない。
むしろ亜子の様子を見て彼は楽しんでいる。娯楽の一つとでもいうように。
ばたばたと外で慌しい足音がして、シャルルはそこで初めて不愉快そうに眉をひそめた。
「チッ。来るのが早いな。『ヤト』どもか」
やと?
聞いたこともない言葉に困惑していると、両開きのドアが開くなり、
「『束縛』!」
凛とした声が響いた。
30代の白い服……まるで軍服のようなそれを着た男が人差し指を亜子に向けた。ちょうど振り向いた直後だった亜子は、その場でまるで固まったように動けなくなり、転倒しそうになる。
(なっ!? か、身体が動かない!)
こんな夢があっていいのか?
これが金縛りってやつなのだろうか?
両腕をぴったりと身体につけるような姿勢で、直室不動を強いられた亜子は、視線だけ男に向ける。
「殿下! トリッパーが侵入したとの報告で参りましたが、ご無事ですか!?」
「デライエ、うるさい」
断ち切るように言い放ち、長椅子に座っているシャルルは眉をひそめた。
「面白いものが手に入ったのに、また取り上げるというのか、おまえたちは」
「で、殿下……トリッパーはまず素性を……」
「わかっておる」
うるさい、とでも言うように、羽虫を追い払う仕草をし、シャルルはデライエと呼ばれた男を冷たく見遣る。
「では連れて行け。説明と登録が済んだら、余はまたこやつに会いたい。異界の話を聞きたいのでな」
「それはできかねます、殿下」
「登録が済み次第、すぐに放り出すのであろ? では、余の持ち物にしばらくしても良いであろうが。
こやつが職を決めるまでの、短い猶予で構わん」
「……ですから殿下」
「首を刎ねるぞ、デライエ」
ヒヤッとするような声音で言い放ったシャルルの目は笑っている。
デライエはしぶしぶと言うように、「便宜をはかってみます」と小さく言い、亜子を連行してその場を去った。