「うそでしょー!」
わたしは悲鳴をあげて、壁を強く叩いた。
落ちてきたはずの穴は閉じ、取り残されてしまった。
帰れない? もしかして。
目眩がして、膝を床につきそうになる。
たったひとりぼっちで……どうすれば……。
涙がこみ上げてきた。今までは、すぐ傍に由希が居てくれたのに……。どうしよう……わたし、涙もろいのに。
鼻先が痛くなってきて、喉が引きつる。
「おねぇちゃぁん……」
いつも助けに来てくれるはずの頼りのお姉ちゃんはいない。ここには、いない。
背後から聞こえる大勢の足音に私は焦りを覚え、涙が引っ込んだ。
まずい。ここから逃げなくちゃ。
私は隠し廊下を、なるべく足音をたてないように走り出した。
*
まず、男たちは自分たちの身を守った。
特にモンテ=インコ。召喚に失敗した彼は、額にものをぶつけられるのを恐れて身を屈めた。
だがすぐさま背後から締め上げられる。それは長身の男……梅沢だったので驚くしかなかった。
「貴様! 亜矢ちゃんだけを置き去りにするとはなんということを!」
本気で激怒している梅沢の腕力は見かけ以上で、モンテの顔色が黄色から青に変わっていく。
(ひぃー……こっちの人間はみんなこんななのか……?)
「梅沢のにいさん、離しておくれ」
美和の声に仰天したのは、意識が飛びかけたモンテ自身だった。
え。たすけてくれるの?
期待した途端、由希の冷たい声が降りかかってきた。
「いや、そのまま絞め殺しちゃってもいいよ?」
明るくて爽やかすぎて、それが余計に怖い。しかも、目をちらりと向けると極上の笑みを浮かべているではないか!
ころされる。
モンテはがくっと首を垂れた。……もちろん、死んではいない。
恐怖で意識を手放したモンテを梅沢が解放した。そのままモンテはずるりと床に倒れてしまう。
「なぜですか美和さん! 亜矢ちゃんをこいつは助けられなかったんですよ!」
「あれは亜矢が悪い」
おそらく追っ手が来たのだろう。弟を先に逃がしたことでまあ許してやろうと美和は思っていた。
腕組みした美和は、悩む。
「さてと……亜矢が残されちまったが……どうするかね」
「まずは私をウルドに戻すのが先決だと思う」
見知らぬ男の発言に、由希がきょとんとした。それもそのはず。由希はアルバートとは面識がないのだ。
「しかしアシャーテの魔術はそれほど簡単には打ち破れませんぞ。ユキ殿を連れ戻すので精一杯でしたしな」
「どうしてそうあんたは諦めるのが早いんだい」
面倒そうに言う美和がモンテを睨みつけた。モンテはまたも反射的に首をすくめる。……物は投げられなかった。
*
それぞれぎゅうぎゅうになってソファに腰掛け、作戦会議ならぬ……今後の打ち合わせがおこなわれることになった。
とにかく、木暮家のテレビが媒介となって、あちらとこちらを繋げるのは確かなこと。
一度に通れるのは一人。妨害電波を出している第三王子の魔道士の動きを止めること。やることは盛りだくさんだった。
話がまったくわかっていない梅沢、そして微妙にしか理解できていない戦う坊主・円は台所のイスに腰掛けて、あーだこーだと雑談に華を咲かせていた。
美和は二階で眠っていて、何かあれば起こせと不機嫌そうに出て行ってしまった。
つまり、このリビングには木暮家長男・由希と、第一王子アルバート、第七王子ナギル、ナギル直属の宮廷魔道士モンテの四人だ。だが男だらけで狭いことこの上ない。
事の次第を由希は話してきかせた。
ナギルの指輪でトカゲ頭(ラード=ペキという名らしい。しかも女性だったようだ)に言うことをきかせて王宮まで来たが、隠し通路に逃げたせいで追いかけられたこと。
そして小部屋を見つけたが最初は中に入れなかったこと。
「それはそうだ。王族しか中には入れぬ。扉を閉めなかったのか?」
「閉め方がわからなかったんだ」
肩をすくめる由希に、ナギルは当然かとも思った。指輪をはめていたからこそ、亜矢は王族と認識された。だからあの扉は開いたのだ。閉じることができなくてもしょうがない。
「あちらの様子はわからないのか、モンテ」
アルバートは眉間に皺を寄せてモンテに尋ねるが、モンテは首を左右に振るばかりだ。
「妨害がよりひどくなっておりますな……。これはアシャーテ様の力だけではないかもしれませんぞ」
「アシャーテ以外にも妨害を協力している魔道士がいると?」
「いえ、あの隠し通路は元々魔道士の力を弱くさせます。アシャーテ様の妨害があったとしても、これほどとは思えないので」
つまりだ。
由希がぴっ、と人差し指を立てた。
「べつの何かが妨害してる可能性が高いってこと? これって、ただのお家騒動じゃないわけ?」
静まり返ったリビングの中で、ナギルがハッとして兄の顔を見た。
「あそこは妖精の森への道でもあったはず……! 兄上、まさかと思いますが……」
「王の選定……? だがアヤ殿はただの婚約者だぞ? 正式に婚約式も済ませていない」
「あの指輪をしていれば王族とみなされる。妖精には関係ないと思われます」
王家の者たちが青い顔をしているので、やばい予感が由希はしていた。
これはまた……姉の事件引き寄せ体質がうまく発動してしまったに違いない。
(もー、ほんと亜矢姉って平穏って言葉から一番遠いんだから……)
頭を抱えたくなった。
自分を先に逃がしたのだって、明らかに本能で行動したのだろうが……今までその本能のせいで後でひどい目に遭いそうになったことを忘れている。
いや、危険なのは「今」だ。
なぜなら亜矢をいつもなら助ける由希や美和がいない。彼女は今頃、一人で王宮内にいるのだ。うまく逃げているかどうかさえわからない。
「ねえね、その王の選定ってなに?」
由希が渋々尋ねると、ナギルが「うむ」と頷いた。
「王が瀕死の時、王家と契約を交わしている妖精たちが次代の王と勝負をするのだ」
「…………は?」
「おそらく妖精の力が強く働いて、こちらとあちらが繋がり難いのだ。いや、逆に繋がり易いのかも……」
「どっちなんだよ、ナギル?」
「アシャーテとの力がぶつかっているから、余計にややこしくなっているんじゃないかとオレは思う。モンテ、どうだろう?」
「いや、王子の推測は当たっている可能性が高いですぞ!」
*
おうのせんてい?
長い廊下を歩きながら、わたしはぼんやりと思った。
さっきから「あの声」がずっと話しかけてくる。
幼い頃のナギルのこと。王族のこと。国のこと。
声を聞いているとぼんやりしてしまい、どうしても意識がはっきりしない。
眠い。でも歩かないと。
<ほら、まだまだよ>
まだって、もう1時間も歩き続けているのに。
そういえば、追っ手の姿がない。無事に逃げられたのかしら?
悩んでいると、声がまた応えた。
<だってもう、人間には追ってこれないもの>
楽しそうに喋る声は一つじゃない。幾つも重なって聞こえる。
なんだ……ま、助かったならいっかぁ……。
のろのろと歩いていると、声が誘導してくれる。
ねむいや……。
<『惑い』を起こすのをあなたに手伝って欲しいの>
そういえばさっきからそればっかり……。
「おうのせんていって……?」
<知らないの?>
声ではない声が驚いた様子をみせた。
そんなこと言われたって……わたし、こっちの人間じゃないし……。
<今、この国の王は病の床についているわ。生死は私たちの管轄外だから、王がどうなるかわからないの。
だから選定をおこなうのよ>
だから、それがなんなのかって訊いてるのに……。
そういえば私って、途方に暮れてたのよね? 由希だけ帰しちゃって……。そうしたらこの声が聞こえてきて……こっちよって……。
<それに、百年に一度、強化の儀式をおこなうの。私の森には魔法といういにしえの秘術がかけられているのよ>
「それを……強化するの……?」
<そう。手伝って欲しいの。あなたは次の王の妃になるかもしれない人だもの>
そんな……ばかな……。
だって私、そんなはず……。
…………ああそうか。私、ナギルの指輪をつけてた。だから?
「なんでそんなことするの? えっと、強化の儀式ってやつ」
<人間が入ってくるのを防ぐためよ>
「ふーん」
じゃあこの声の主は人間じゃないのね。そっかぁ……。まあ、なんでもアリかなとは思ってたんだけど。
幽霊なのかなあ……。いつもなら悲鳴をあげるのに、どうにも眠くてそんな気も起きない。
こつん、こつん、ってわたしの足音だけが響いてる。
そういえば……なんか壁にコケみたいなものが見える。あれえ? こんな道通ったっけ?
ぼんやりとした意識のまま、私は歩き続ける。
<あなた、お名前は?>
「亜矢」
<変わったお名前ね。あなたのこと、もっと知りたいわ。『リィエンの華』を身につけているってことは、第七王子の妃ね?>
ちがう、と言いそうになるけど、なんだか口ごもってしまった。あれぇ? 変なの。
<ふふふ。第七王子ナギルがあなたの相手なのね?>
違う。違うわ。
それなのに、口に出せない。
意識がぼんやりとしているだけじゃない。なんだかすごく、迷っている。
まよって…………。